東 京 支 部 掲 示 板


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[778] 教科書一覧 稲作 Name:桜子 Date:2012/08/05(日) 06:35 [ 返信 ]


  

[779] RE:教科書一覧 稲作 Name:桜子 Date:2012/08/05(日) 06:46


    

[780] RE:教科書一覧 稲作 Name:桜子 Date:2012/08/05(日) 06:48


     

[781] RE:教科書一覧 稲作 Name:桜子 Date:2012/08/05(日) 06:49


           

[782] RE:教科書一覧 稲作 Name:桜子 Date:2012/08/05(日) 06:50


                      

[359] 巻菱湖『假名字源』(其一) Name:苹@泥酔 Date:2010/01/05(火) 03:48 [ 返信 ]


假名字原
「い・い」みな「以」の草書なり。
涅槃経の「伊」字、下(?)より出たりと
いふ。僻説といふべし。「い」。
「者」ならひに訓にとれり。
「は・は」は「盤」、「は」は「半」、「は」は
「破」なり。「ば」は「婆」濁音なり。
「に」は「仁」。「に」は「二」。「に」は「耳」。
「に・に」は「尓」なり。
「ほ・ほ」は「保」の訛省。「ほ・ほ・ほ」は
「本」。「ほ」は「寶」也。
「へ」は「反」の末筆なり。古抄本
分注に反切の「反」を省きて
「へ」につくれり。これは新井
白蛾の説なり。「皿」の草書
「皿」より出たりといふはあやまれり。

 草書の「下」らしき字は誤読かも知れない。「僻説といふべし」の後の「い」は「意」の草略に見える。〜なぜここでいきなり涅槃経が出てきたのか、また新井白蛾とは誰かも全く分からない。あたしゃ碌に調べもせずにただボケーッと読んでるだけだけど、打鍵中に訳もなくホホホと空笑いしたくなるのは、それだけ頭の中から幕末期の文字情報が抜け落ちていく自虐的快感に陶酔しかかってるって事なのだろう。脳味噌どっちらけ。とほほほほ。続く。(たぶん。)


[362] 巻菱湖『假名字源』(其二) Name:苹@泥酔 Date:2010/01/05(火) 21:43


「へ」は「遍」。「へ」は「閉」。「へ」は「邉」。
「へ」は「弊」なり。「べ」は「辨」濁
音也。
「と・と」は「止」訓なり。「走」を「は」に
もちふると同じ。「と」は「登」。
「と」は「東」なり。
「ち・ち」は「知」。「ち」は「遅」なり。
「り・り」は「利」。「り」は「里」。「り」は「理」。「り」は
「梨」也。
「ぬ」は「奴」。「ぬ・ぬ」は「怒」。「ぬ」は「努」也。
「る・る」は「留」。「る」は「流」。「る・る」は「累」。「る」は
「類」也。
「を・を・を」は「遠」。「を」は「越」。「を・
を」は「乎」。「を」(?)は「弘」なり。
「わ・わ」は「和」。「わ」は「王」なり。
「か」は「加」。「か・か」は「可」也。「か」は「閑」なり。

 「いろは」順の配列から推し測ると、「弘」は「を」と読む事になるらしいが、これがどうにも胡散臭い。手持ちの書道字典にも古文書字典にも「仮名としては」載っていない。何故いきなり出てきたのか不可解である。おそらく今なら誤字と云ってよい。では何故それが教則本に載っているのか。この教則本で学ぶ人々が居たという事は、そこに書かれてある様に読み書きした人々が居たという事になるだろう。
 教則本には様々な規範が書いてある。そして書道は識字学習の規範。つまり「規範が規範である事」それ自体に問題があるとも云えるが、ならば規範から逸脱すればよいかと云えば、そうでもないのは誰だって分かる。しかし規範が「逸脱からの逸脱」を許さない場合、問題は規範の側で噴出するだろう。規範が絶対神の様に振る舞う時、そこでは絶対神の言葉が絶対となる様に。
 だけど(るるるる♪)仮名は、さにあらず。一音多字ゆえの複雑さが言葉の神の相互監視状態を惹起し、また漢字との類似ゆえの複雑さが漢字との差異をも相互監視する。そこには予め相対があり、相対あるがゆえに絶対としての「漢字・仮名」が幻視される。ところが相対なき絶対は、絶対の絶対性を幻視側から現実側へと剥奪する結果に繋がる。絶対が幻視との絆を喪失した時、そこに或る種の権力が生まれる。
 それにしても〜こうして一音一字の現代表記に置き換えていると、この手の教本がなんと無味乾燥に映る事か。字源に戻せば「閑」は「閑」なり…か。歴史の切断を感じながら打鍵せざるを得なくとも、耐える初級アニヲタ野郎は可能な限り蛇足にパンチを効かせたくなるのであった(打つべし、打つべし)。

(「其一」訂正)
 「白蛾の説なり」は誤読で、正しくは「白蛾が説なり」なのだろう。根拠は「蛾」の末画すなわち点が次の字に連綿していく際、そのまま「の」状の起筆部分に直結するのではなく、手前でいったん止まっている箇所にある。つまりそこには予め字画の痕跡がある事になるため、「乃」ではなく「可」の草略だと分かる。また通常「乃」は大きく書くのに対して「可」は小さく書くから、その点でも両者は区別できる。


[365] 巻菱湖『假名字源』(其三) Name:苹@泥酔 Date:2010/01/06(水) 22:42


(「か」は「閑」なり。)
「樂」の草書「楽」とおもへるは、たがへり。
「楽」は「洛」音にとりて、「ら」音に
もちひたり。「か」は「歌」。「か」は
「哥」なり。「か」は「賀」清濁音也。
「が」は「我」濁音なり。
「よ」は「与」なり。「よ・よ」は「餘」なり。
「た」は「太」の訛濁音なり。「た・た・
た・た・た」みな「多」なり。「た」は「刀」なり(上)
なり。
「れ」は「礼・禮」の古文なり。「れ・れ」(三)
(下)といふはたがへり。「刀」は「と」音なり。
「た・た・た」は「當」なり。「た」は「堂」(一)
(四)は「禮」。「れ」は「連」なり。
「そ」は「則」の草書也。「そ」は「即」の
草書也。ならひに「曾」の草書「曾」
とするはあやまりなり。「そ・そ」は
(「所」。)

 途中で行の順番に乱れがある。直せば大体、こんな具合になるのだろう。
--------------------------------------------------------------------------------
「か」は「閑」なり。
「樂」の草書「楽」とおもへるは、たがへり。
「楽」は「洛」音にとりて、「ら」音に
もちひたり。「か」は「歌」。「か」は
「哥」なり。「か」は「賀」清濁音也。
「が」は「我」濁音なり。
「よ」は「与」なり。「よ・よ」は「餘」なり。
「た」は「太」の訛濁音なり。「た・た・
た・た・た」みな「多」なり。「た」は「刀」なり
といふはたがへり。「刀」は「と」音なり。
「た・た・た」は「當」なり。「た」は「堂」
なり。
「れ」は「礼・禮」の古文なり。「れ・れ」
は「禮」。「れ」は「連」なり。
「そ」は「則」の草書也。「そ」は「即」の
草書也。ならひに「曾」の草書「曾」
とするはあやまりなり。「そ・そ」は
「所」。
--------------------------------------------------------------------------------
 「閑」と「樂」の草書は、御覧の通り少し似ている。しかしそこには決定的な違いがある。「閑」の草体では門構えの痕跡を上から覆って残しているのに対して、「樂」の草体ではそれに相当しそうな箇所(=門構え)がただの点(主に「白」の初画部分?)となっている。また「閑」では「木」の起筆となっている部分が、「樂」では「糸」と「木」第一画の複合による「折れ」をなしている。こうした差異が敢えて扱われているのは、「閑」の門構えから木に至るまでの連綿線(虚画)が、「樂」の「糸」左側草略箇所(実画)との混同を誘引しがちになるからであろう。
 「そ」の字源については、これを「曾」とする見方が今は復権している。「則」や「則」を字源とする見方は排除された。どこの高校教科書でも、今はそうなっている。


[377] 巻菱湖『假名字源』(其四) Name:苹@泥酔 Date:2010/01/09(土) 02:11


(「そ・そ」は)
「所」。「そ・そ」は「楚」なり。「ぞ」は「叙」
濁音也。
「つ・つ」は「鬥」なり。「鬥」音「闘」と同じ。
草隷ともに「門・鬥」わかつをなし、
肥人書といふものありて「川」は
此方の文字なりといふは謬妄の説なり。「つ」は「都」。
「つ・つ」は「徒」なり。「つ」は「津」の
訓。津液の字もと「盡」〜従津(?)従血〜
なるを、津渡の字をかり用。
「ね・ね」は「祢」なり。「ね・ね」は「年」なり。
「な・な・な・な」は「奈」也。「な」は「那」の
訛なり。「な・な」は「南」。「な」は「難」也。
「ら・ら・ら」は「良」なり。「ら」は「羅」也。
「む・む」は「武」。「む」は「牟」。「む・む」は
「舞」。「む」は「無」なり。「む・む・む」は「无」
(〜古文「無」〜の省なり。)

 「ら〜ら〜ら〜♪(中略)今日も明日も貴方に〜会え〜ない〜♪」(先日偶々iza桜子ブログの「坦々塾」新年会記事を読んで、何故か負けじと妄想一曲披露の気分有之。後に紅白司会者となるスマップ某が十数年前に主演した料理人ドラマの主題歌より。)
 …閑話休題(汗)。
 「所」の書写体が画像冒頭の形。活字の一画目を長く伸ばした形と見れば、他の箇所の連関も容易に想像できる筈。「楚」の下半分を「之」の形で書くのも昔は当たり前。活字体の「楚」なんて殆ど書かれないってば。
 …そう云や、「鬱」の字が難しいから「憂うつ」と書けとほざく馬鹿者が長らく巷間に棲息しているらしいけど、あれだって本来は活字の「鬱」の方が非常識なんだよな。高校書道教科書に載ってる九成宮醴泉銘を見てみろよ。上部以外は「爵」と同じ形だぜ。なんなら千字文でもいい。「好爵自縻」と「宮殿盤鬱」を見比べれば分かる。
 「つ」の字源は現在、「川」か「州」って事になっている。幕末期は「謬妄」扱いだったらしいが、くずし自体は「門」と同じだから気持ちは分からぬでもない。とは云え「盡」らしき字に至っては、余りの事に「津液」「津渡」共々チンプンカンプン。精妙巧緻で蠱惑的な書きぶりが厄介で、さながら美女の細腰に目を奪われる心地。
 「年」と「手」の区別はビミョー。内部留保の点の数が三つなら確実に「年」だけど、二つに草略した場合が困る。差し当たっては懐抱が広ければ「ね」、こぢんまり纏まっていれば「て」とでもして置くか。
 字源意識が希薄な読み手・書き手だと、誤読の可能性が高まる。…この点、藤原定家は偉かったわいなあ。字はヘタウマ的にボテッとしてるけど、読みやすさの根源をしっかり把握していた。

(「其三」訂正)
【誤】→「則」や「則」を字源とする見方は排除された。
【正】→「則」や「即」を字源とする見方は排除された。


[378] 巻菱湖『假名字源』(其五) Name: Date:2010/01/09(土) 06:57


(「む・む・む」は「无」)
〜古文「無」〜の省なり。「も・も」なりといふ説
たがへり。又「に・に」なりといふ穿
鑿の説なり。いにしへ訓の首
にももちひたるなり〜「むらさき」などの例〜。
「う・う」は「于」。「う」は「宇」。「う」は「雲」
「う」は「有」也。
「ゐ・ゐ」は「為」なり。「ゐ」は「井」也。
「の・の」は「乃」。「の・の」は「能」なり。「の」は
「農」。「の」は「濃」なり。二字いにしへは
「ぬ」音にもちひたり。
「お・お・お・お」は「於」なり。「お」は
「億」なり。
「く・く・く」は「久」の訛なり。「く」は
「九」。「く」は「孔」なり。「く」は「具」濁
音なり。
「や」は「也」。「や」は「耶」也。「や」は「屋」の
(訓なり。)

 草略理論上、「能」の書写体は重要な部類に属するだろう。「ヒ」を上下に重ねるかの様な形からは絶対に、草書や仮名への変奏がなされなくなるためである。そこでは逆に活字準拠の筆順が伝統的な草略経路を阻み、書体間の絆を切断してしまう。筆順無視・篆体以前を潜在的な旨とする文字学(その末裔には漢和辞典が聳え立つ)には、後世の書字史を破壊する可能性が常に付き纏う(筆順不要のワープロ時代は特に)。
 他方、「お」の筆順異体をサラリと「於」に纏めている点は興味深い。本書の「え」では、字源解釈を「兄」と「衣」に分かつ。これと比較されたい。「於」を字源とする仮名を現行平仮名と変体仮名に引き裂いた明治人の行為は、「一音一字」政策を踏み越えて「一字一音」化をも胚胎する結果になったかの様に思えてならないからである。
 この件については差し当たり、他の字例を交えた旧稿を参照されたい(「2004/04/06 00:41」稿が初出↓)。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7658&range=1


[379] 巻菱湖『假名字源』(其六) Name: Date:2010/01/09(土) 07:03


(「や」は「屋」の)
訓なり。
「ま・ま」は「末」なり。また訛て「ま」に
つくれり。「ま」は「万」。「ま」は「萬」。「ま」
は「滿」。「ま」はその半軆。「ま」は
「麻」也。
「け・け」は「計」なり。「け」は「个」なり。
いにしへ「个・介」通用せしなり。
「け」は「希」。「け・け」は「氣」。「け」は
「遣」なり。
「ふ・ふ・ふ」は「不」なり。「ふ」は婦。「ふ」は
「布」なり。
「こ」は「己」。「こ・こ」は「古」。「こ」は「許」。「こ」は
「故」なり。
「え」は「兄」の訓なり。俗にもと「え」といふ。
「元」にてはあらざる也。「え・え」は「江」
の訓也。「へ・へ」はその半軆
(なり。)

 これって、現代字源表記だと「末二川久連利」でいいんだよな…。画像が荒いと二行目末の「に」を「と」と読み間違えそうになる。写真技術が写本技術より上だとは限らない。写真画像がボケたりドットの荒さが目立ったりすると、どんな平易な文字でもたちどころに難読字と化してしまう。技術的差異の本質を先入観や偏見で判断してはならない筈なのに、保守側の人ですら明治以後の表面的呪縛に魅入られ、新技術を盲信しがちになるのだから困ったもんだ。
 今は旧字体が「萬」で戦後の新字体が「万」だと思う人が多いのだろうが、どっこい「万」は平安時代以前から頻繁に用いられていた。高校書道で仮名を真面目に勉強すれば誰でも分かるし、そこそこ読める様にもなる。それが読めないのは書道を選択しなかったか、真面目に勉強しなかったか、学ぶ機会が予め奪われていたか、歪曲教育を受けていたからだ。これは断言してよかろう。
 江戸時代、侮り難し。まさか「え」に「兄」が出てくるとは思わなんだ。…でも、そう云や中大兄皇子って例があったっけ。続く。


[386] 巻菱湖『假名字源』(其七) Name: Date:2010/01/11(月) 07:36


(「へ・へ」はその半軆)
なり。俗に「ゆすりへ」といふ。「え・え」は
「衣」也。俗に「きぬえ」といふ。「え・え」は
「衣」の訛なり。「え」は「盈」。「え」は
「要」。「え」は「愛」なり。
「て・て・て」は「天」。「て」は「帝」。
「て」は「亭」。「て」は「轉」。「て」は「手」訓
なり。
「あ・あ」は「安」。「あ」は「阿」也。
「さ・さ・さ」は「左」。「さ」は「差」也。「さ・さ」は
「散」。「さ・さ」は「佐」の訛。「さ」は「草」。
「さ」は「斜」也。「ざ」は「謝」濁音也。
「き・き・き・き」は「幾」。「き」は「起」也。
「き・き」は「岐」の半軆也。「奇・奇」の
訛なりといふたがへり。
「ゆ・ゆ」は「由」。「ゆ・ゆ」は「遊」なり。
「め」は「女」。「婦・妻」の訓をかりもちふ。

 …続ける。
 ここでは「江」の半体=旁が草略されて「へ」(「え」と読む)の形になったとする解釈らしい。点画をゆする様な書き方だから「ゆすりえ」と云うのだろうか。「衣」の方は漢字を「きぬ」とも訓読するから「きぬえ」なのだろう。覚え方、教え方には古今、様々な工夫があった事が分かる。
 現行平仮名の「て」には、「天」の他に「弖」を字源とする見方がある。ここでは明らかに「天」と分かる草体が例示してあるが、二番目の「て」を「く」(「其五」参照)に近付けて伸びやかに書く様な形の字源が「弖」とされるらしい。「帝」と「亭」の草体は書き方によってはかなり似てくるので要注意。
 「あ」の楷書は期待外れだった。書写体ではワ冠を「女」初画が貫く形で書く。千字文に「言辭安定」の句があるので、そちらを参照されたい。「さ」と「左」の字画対応関係は、三番目の「さ」を手懸かりに理解すればよい。
 「幾」の書写体は下半分が特徴的で、「ノ」が消え左側の形が変わる。これは「母」(「其八」参照)と同様の点画融合例で、左側の形が変わったのは「ノ」が癒着したから。同様の例としては「哉」が典型的(千字文では末句に「焉哉乎也」とある)。〜草書では大抵「幾・哉・歳・成」などの字が「来」系の造字構造へと纏まっていく。これを「戊」のケースで解釈すると、第三画が縦画状に変化する結果、「ノ」が左払いの儘では居られなくなる。そこで「き」例の三番目の様に横画化するか、四番目の様に右払いの草体へと変化する事になる。また「戊」型の内側に点画を含む「戌・成・歳」などの字では筆順も変わり、先ず「戊」末二画を除く骨格部分を書いてから、内側部分、「ノ」(右払い化)、点の順番で書いていく。
 「起」の様な「繞を先に書く字」は偏旁構造に変化する。それに対して之繞や延繞、すなわち「繞を後から書く字」は、「を」末画の様に短く単純化する(「其二」参照)。また「起」の書写体で「走」下半分の形が変わるのは、あくまで「楚」のケースと同じ変奏原理に則っている(「其四」参照)。これは楷書が最後に出来た漢字書体であるところから、行書・草書の影響が強く窺われるのはごく自然な事と云えよう。つまり楷書は成立当初から「隷書の楷書化」のみならず「草略体の正体化」でもあった事になる。そこから草略の影響を排除し、過剰に篆書的理念へと戻ろうとした支那文字学の立場は、予め「楷書の歪曲」という貌も具えていた。従って完成態としての康煕字典準拠思想は、楷書に対する呪いを「楷書の内側で」自ら体現せざるを得ない。楷書に篆書が憑依する点では道教的意図さえ感じられるが、これについては各方面の専門的立場から御教導を願いたい。
 「支」(シ)を「き」と読むのは無理があったのだろう、「岐」(キ)の半体としてある。その後の説明がどう云う意味か按ずるところ、後続の字と連綿する際に生ずる巻き込み(回転)に引きずられて「奇」の草書と似た形に見えてくる。それを戒める意図が菱湖にはあったと思われる。単体で書かれる場合は「又」の痕跡が残るが、連綿すると収筆の痕跡が連綿線の中に溶解するので注意を要する。
 「め」は画像に難がある。現行の平仮名が書かれてあるが、一画目が隠れて見えない。この箇所は各自、脳内で補正していただきたい。


[387] 巻菱湖『假名字源』(其八) Name: Date:2010/01/11(月) 07:41


「め」は「免」。「め」は「馬」。「め」は「面」なり。
「み・み・み」は「美」。「み」は「微」也。「み」は「三」。「み」は
「見」ならひに訓也。
「し・し・し」は「之」。「し」は「新」。「し・し」は
「志」なり。「し」は「事」清濁音也。
「ゑ・ゑ」は「恵」なり。「ゑ・ゑ・ゑ」は「衞」
の訛也。
「ひ」は「比」。「比・比」の訛。「ひ」は「非」。「ひ」は「悲」。
「ひ・ひ」は「飛」なり。「ひ」は「日」訓なり。
「も・も」は「毛」。「も・も」は「母」なり。
「も」は「母」の省なり。「も・も」は
「茂」なり。「も・も」は「裳」訓なり。
「せ・せ」は「世」なり。「せ・せ」は「勢」
なり。
「す」は「寸」。「す・す」は「數」なり。「す・す・
す」は「春」。「す・す・す」は「須」。「す」は

 「み」は「美」の書写体草略。下半分は「火」の形。その「人」の部分が上部の「羊」から繋がり最後に点々の筆順。その最後の点(左払い)が「み」の末画に相当する。千字文に「篤初誠美」の句があるので参照されたい。
 「比」の草書は「ム」を二つ横に並べた形を更にくずした様な形となる(千字文に「猶子比児」の句あり)。その結果「以」と酷似した形となるが、菱湖の説明ではこの辺が曖昧となっている。なお画像中、「飛」草体の隠れた部分には点が打ってある(千字文に「樓觀飛驚」の句あり)。
 「毛」に由来する二つの「も」は筆順が違う。楷書筆順に近いのは後者。本書で書かれてある「母」系統の「も」は「女」の間に点を挟む。よって後の方は「乙・ゝ・ゝ・一」の順番で書かれ、かつ「一」が囲み部分を兼ねる場所的イメージの下、楷書筆順で云う第二画と第五画の混合・溶解がある。全体としてはあくまで「女」が基本であり、その間に二つの乳房(点々)が絡む。
 ただしここでの「母」は一般的な筆順ではない。今の書道字典に載っている形は普通の筆順である。苹按ずるに、「毛」由来の形から影響を受けた解釈であろう。書道字典を盲信すると却って古文書が読めなくなる可能性があるので注意されたし。ところが古文書字典なら大丈夫かと云うと、こちらはこちらで実践的な編纂傾向がやたらに強いので、本書のごとき手習いレベルの字源分析にはなかなか日が当たりにくい。古文書学は基礎以前の基礎を軽視していると云わざるを得ない。
 「春」の草体筆順は、楷書の順番を組み替えると1・4・2・3・5…となる。よって最後の点は「日」に相当する。


[388] 巻菱湖『假名字源』(其九) Name: Date:2010/01/11(月) 07:46


(「す」は)
「素」也。「ず・ず・ず」は「壽」濁音也。
菱湖巻大任

 ここでは濁音と書いてあるが、「壽」は濁点なき「す」でも通用する模様。
 筆者の「菱湖」は雅号で、通名は巻大任。弟子に「菱門四天王」と呼ばれる中澤雪城・萩原秋巌・生方鼎齋・大竹蒋塘が居り、教育書道などの方面では萩原秋巌の功績が大きい。秋巌の弟子に、清朝体活字の字母を書いた小室樵山などが居る。
 因みに福田恆存の父君は、書家でもあった福田秋湖だそうな。そのまた師匠は安本春湖。西川春洞の七大弟子の一人である。その春洞が中澤雪城の弟子。〜春洞の子である西川寧は、豊道春海(春洞の弟子)の薫陶を得て戦後書道界で大いに活躍し、書道界では初の文化勲章を授与された。
 閑話休題。
 巻菱湖は市河米庵や貫名菘翁と並ぶ唐様書家とされる。仮名も含めた手本出版数では幕末随一の規模であり、明治維新を経た後も少なからぬ影響を及ぼした(特に国定手本乙種系統)。新春にNHKがテレビのニュースで流す歌会始の筆文字は、ざっと見た限り大体この系統になっている模様。嘗て大ヒットした朝ドラ「おしん」には田中裕子が手紙文を書くシーンが出てきたが、アップで映った封筒の字も国定乙種系だった。当時の関係者は時代の文字痕跡をよく知っていたと見える。人は死んでも字は残る。その証言能力は極めて高いが、読み取る側に欠陥があるとアッサリ見落とされてしまうから伝統文化の継承は難しい。
 やがて昭和が終わり、今ではNHKも平気で上滑りする様になった。明治以降に入ってきた六朝書風の影響を江戸時代以前の時代劇で露呈する点なんざ、時代考証お粗末な韓国番組ばかりを嗤っては居られない。世に「明日は我が身」と云うが、これは今の話である。〜最近は書道ブームの再来を目論む人々がマスコミを引きつけているらしく、所謂「パフォーマンス書道」が賑やかになってきている。例えば現在放送中の或るNHKドラマなんか興味深い。放送終了が近付いた頃合いに、主演女優の写真集が出るそうな。いまどき水着姿は珍しくないが、書道姿もある(!)となると実に珍しい。ドラマ自体がタイアップ企画なのだろうかと疑いたくなる。
 この美少女写真集は来月発売との事。劣情ウホウホ、買ってみようかと思い悩んで居るところである。(とどのつまり、「NHK批判に絡めた妨害意図はないってば」のメッセージでやんす。)
 …以上の話題を以て、ひとまず正月の集中画像投稿練習を締め括る。


[389] RE:巻菱湖『假名字源』(其一) Name:桜子 HOME Date:2010/01/11(月) 22:15
苹さま

きれいなわかりやすい字ですね。
難しいですが。
参考にさせて頂きます。

其七の「『謝』濁音也。」の次の行が飛んでます。(o ̄∇ ̄)o
「修正」で挿入なさればよろしいのではないでしょうか。


[390] ありがたや♪ Name:苹@泥酔 Date:2010/01/12(火) 01:24


>其七の「『謝』濁音也。」の次の行が飛んでます。(o ̄∇ ̄)o
 あら、本当だ(汗)。ご指摘いただき、有難う御座います。「修正」は初めてだから、色々と心の準備をしてから試してみます。

 ついでに余談も書いとこ。
 いきなり江戸時代のを読むなんてのは、私にとっては外国語を読む様なものなんですね。少し書道を齧った経験がある程度では如何ともしにくい壁がある。そこで昭和、大正、明治と順繰りに遡った方が同時代感覚に近付けるのではないかと、昔こんなの(画像↑)を読んでたりした訳です。ただしこれは或る競書雑誌の中学生向け記事に偶々載っていた図版ですから、原本の他頁内容は知りません。要するに「つまみ食い」ばかりしてきた訳で、あたしゃ専門家ではありませんです、はい。


[391] RE:巻菱湖『假名字源』(其一) Name:桜子 HOME Date:2010/01/12(火) 10:51
苹さま
おはようございます。桜子です。

桜子は今までのことから、何年間ですが、苹さまのこと、ものすごく専門家だと思っております。(o ̄∇ ̄)o
その人のクセみたいなものがありまして、それで漢字の崩しかたが多分不正確なのだと思います。
「開業を祝する文」全然、読めません。


[392] 桜子様に感謝 Name:苹@泥酔 Date:2010/01/12(火) 21:45


 「其七」の追補、どうやら成功した様にて安堵。

(以下余談)
 上記画像は同じく巻菱湖の「七ツいろは」より。…あたしゃ残念ながら、この部分しか見た事ないのよね。どこかの出版社で、「其九」目録掲載の全部を纏めた『巻菱湖版本集成』(仮題)か何か出してくれないかなあ。石碑まで含めると数十倍ややこしくなりそうだし(汗)。巻菱湖記念時代館と代々木文化学園が手を組めば不可能ではなさそうな気がする。二玄社や天来書院が参画してくれるなら、読者としては欣喜雀躍。


[448] 「菱湖遺法帖」より Name:苹@泥酔 Date:2010/03/27(土) 19:43


 慶応三年の出版。冒頭二行については画像中の活字に説明があるので釈文省略。

●「二」…上畫仰。下畫覆。
 横画の反り方の違いを解説。上の横画は仰ぐ様に反り、下の横画は覆う様に反る。
●「上」…「ト」を忌。
 短い横画が右肩下がりにならない様に書く。横画収筆から縦画に向かう筆脈からも、そうなるのが自然。ただし縦画を先に書く筆順では「ト」状になりやすいので、その辺を戒める意であろう。
●「加」…「力」を忌。ひらくべし。
 ここでは「力」の下が狭くなるのを忌む。点画の向きが放射状に拡がるかの様なイメージで書くと懐抱が広くなり、字の規模が雄大になる。のびのび書こうと過度に長くすると却って他の部分が萎縮して見えるので、こうした方向の工夫による空間処理が要る。
●「与」…抱く筆。筆を立るなり。
 今は横画が突き抜ける形で書くが、昔は「馬」と同様の囲む(抱える)形で書いた。また辞書的には「與」が本来の形とされるが、支那でも日本でも昔から「与」の形で書かれていた。王羲之の草書も平仮名の「よ」も「与」の草略である。
●「乙」…始終直筆にして、此處にて大指のまがらぬをよしとす。
 筆を立てて書く。〜どんな意味かよく分からぬが、この手の教本は細字が前提だろうから…或いはハネる時に親指を(ひいては筆管を)手前に傾ける人でも居たのかしら。
●「也」…上に同じ。下よりつき入るなり。
 右隣の縦画収筆(垂露)から左上に繋がる筆順のため「下から突き入る」筆路となる。
●「ウ」…此處に筆を立とるなり。
 左画を斜めに書かない。立てて書く。すると緊張感が生まれ、字の骨格がきりりと引き締まる。…との解釈も出来るが、次の字を見るとそうではないらしい。
●「門」…此處、上におなじ。
 縦画収筆で筆を立てるとの意味ならば、これは次画への筆脈の話であろう。ただ筆を止めるのではなく、次画に向かう動きが筆を上向きに立たせる。
●「有」…ノ、一。
 要するに、筆順に注意。「ノ」の回転していく先に「一」が来る。筆脈が懐抱をつくる。
●「中」…畫の中央より筆鋒をぬき出すなり。
 縦画収筆が左側に寄りながら抜けていくのは行書や草書の生理だが、楷書では真っ直ぐ下に抜き出す(懸針)。
●「王」…平・仰・覆。「美」「春」の類、此勢に従也。
 通常は三つの横画を仰・平・覆の順で書くが、菱湖流では反らせ方が特徴的。
●「(刀)」…上へつき込たる勢にてひくべし。
 立刀では縦画が並ぶ。左側収筆から右側始筆に突き込む勢いが字の緊張感を醸し出す。
●「知」…上の「ノ」啄。下の「ノ」掠。
 永字八法の謂。「永」を構成する点画それぞれに名前があり、点・横画・縦画・ハネ・左下から右上への跳・長い左払い・短い左払い・右払いをそれぞれ、側・勒・弩・テキ(擢の偏が走繞)・策・掠・啄・磔と呼ぶ。
●「田」…土「|・一・一」。
 ただの筆順。〜これだけではツマンナイので余計な一言。千字文を習っていた昔、「田」と「罔」の草書が似ているのに気付いた(鷄田赤城、罔談彼短)。「田」は普通かつ小振りに書く。「罔」はやや横広、囲いを意識的に書く。
●「辨」…「)(」如此。「()」を忌む。
 背勢に書く。向勢にしない。…この解説もツマンナイな。左右の「辛」が一画多い点に注意。昔はこの形で書くのが普通。
●「川」…左右背勢。中、正直なるべし。
 つまり「)|(」の反り方。…「川」の末画収筆は懸針か垂露の形で書くのが普通だが、ここでは鉄柱にハネの加わる形で書いてある。


[450] 「菱湖遺法帖」秋巌跋 Name:苹@泥酔 Date:2010/03/29(月) 19:18


 図版は萩原秋巌の書いた跋文。ざっと見たところ釈文は下記の通り。

書肆寶善堂得之於故紙中上梓欲問世名曰
菱湖遺法帖屬余題一言余受而攬之則菱湖
先生曩昔繩削其門人之臨書者也其用淡墨者
即門人之書而其用濃墨者即先生之所改正也觀者
當以濃墨爲正格巻不拘詩文之序次者其要在
寶惜先生之墨蹟耳臨池君子庶頼之均思
思盈半矣未必非攻書之助云
慶應丁卯春五月念五日 秋巌原キ(※)識
(※)「キ」は「羽」の下に「軍」で、秋巌の名。「萩原」を「原」一字に略すのは支那式の模倣にて、こうした署名が文人の間では通行した。

 誤読があるかも知れない。〜教職を離れて年々、当方の国語力たるや衰退の一途を辿るばかりにて、読み下しの自信無之候。乞批正。頓首。
「書肆(版元の)、寶善堂。之を故紙中に得て上梓し、世名を問て「菱湖遺法帖」と曰はんと欲す。屬(委嘱)ありて余、一言を題す。余、受て之を攬ずれば則ち菱湖先生の曩昔繩削(昔の添削)にして、其の門人の臨書せる者也。其の淡墨を用ふる者は即ち門人の書にして、其の濃墨を用ふる者は即ち先生の改正せる所也。觀者は當に濃墨を以て正格の巻と爲すべし。詩文の序次に拘はらざるは其の要、先生の墨蹟を寶惜するに在る耳(のみ)。臨池君子(書を学ぶ諸賢には)、之に頼りて思ひを均しくせんと庶(こいねが)へども、思ひ盈(み)つること半ばなり。未だ必ずしも書を攻(おさ)むるの助に非ずんばあらずと云ふ。」

(2010.3.31深夜補記)
 一行目「問」字が抜けていたので訂した。〜六行目「蹟」と読んだ字には疑問が残る。初めは「讀」と見たが、訓読に困ったので誤読を疑った。しかし「蹟」では旁の主画が造字構造上の理屈に合わない。これもたぶん誤読だろう。


[451] 「菱湖遺法帖」添削例 Name:苹@泥酔 Date:2010/03/29(月) 19:27


 淡墨の字は菱湖門人の書。それを師匠の巻菱湖が濃墨で添削したかの様な形で印刷されている(実際は濃墨でなく朱墨による添削か?)。
 この「菱湖遺法帖」は、菱湖の死後二十四年が経ってから出版された模様。前後に西川春洞の序と萩原秋巌の跋があるらしい。〜秋巌跋については>>450を参照。


[499] 古文の図版(「十體字樣」より) Name:苹@泥酔 Date:2010/05/31(月) 21:40


 萩原秋巌は巻菱湖の遺稿「十體源流」を三回忌の弘化二年(1845)頃に出版したものの、図版がないので嘉永六年(1853)に「十體字樣」を出版。

[500] 古文〜蛇足(中林梧竹) Name:苹@泥酔 Date:2010/05/31(月) 21:42


 明治時代の例としては、中林梧竹が青銅器銘文の臨書をいくつか残している。図版は季刊「墨」スペシャル19『中林梧竹』(芸術新聞社)P.69より。
 なお、同じく梧竹が書いた「天照皇太神」幅の図版は>>428で出してある。


[718] 高斎単山書「本朝三字経」冒頭 Name:苹@泥酔 Date:2011/06/15(水) 21:18


 画像は明治九年三月に出版された埼玉県の教科書。下等小学校は八級から始まり半年に一級ずつ進級したとの事ゆえ、満六歳か七歳くらいの学童が学んだのだろう。
 高斎単山は巻菱湖の門流、萩原秋巌の弟子。

(以下、逸話。)
 …三の輪(台東区)の近く、荒川区南千住二丁目にある浄閑寺に、自然石を削って建てられた秋巌の墓がある。そこには亡くなった年月の他に「単山書」と表側に入れてあり、墓としては珍しい造り方となっているとの事。墓の字を彫ったのは石工の広瀬群鶴で、その名まで表側に入れてあるそうな。
 群鶴は秋巌のお気に入りの石工だったが或る日、墓の字が違っていると言われ(口車に乗せられて?)酒を呷るや、字を書いた単山の家に怒鳴り込んだ。単山は群鶴の酒癖の悪さを知っているから居留守を決め込んだが、一向に帰る気配がない。応対したのは当時単山の家に住み込んでいた高田竹山。家人が群鶴に一升瓶で酒を振る舞うと湯飲み茶碗で飲み出した。やがてすっかり酔っ払った群鶴は竹山に字を書けと迫り、仕方なく書いてみせたところ「小僧、なかなか出来るな。よし、これを綺麗に彫ってやろう」とその紙を懐にしまい、ふらふらと帰って行ったそうな…。


[777] 巻菱湖「古今集序」 Name:苹@泥酔 Date:2012/08/01(水) 20:32


 巻菱湖の仮名は晩年の作に多く、この辺が本領であるらしい。

[775] 中国外交官スパイ李春光と日本教育再生機構と接触の証拠 Name:教育問題懇話会 Date:2012/07/04(水) 19:48 [ 返信 ]
中国外交官スパイ李春光と日本教育再生機構と接触の証拠を紹介します。
産経新聞は、両者の関係を報じたがりません。

画像Tは産経新聞平成24年6月2日付け 李春光の写真「平成18年5月に、東京都内で開かれた会合に出席した」とのキャプション 当時は、中国社会科学院日本研究所在籍

画像Uは、扶桑社通信「虹」平成18年7月号掲載記事から、
中国社会科学院との「扶桑社版歴史教科書」をめぐる対話 で、日本研究所所長蒋立峰氏の画像
会合の日付と場所は、平成18年5月17日、都内ホテルにて。
日本側出席者は、八木秀次氏(会合の招聘者)、新田均氏、扶桑社教科書事業担当真部栄一氏ら、日本教育再生機構側の面々。

画像1は 「産経新聞記事」
画像2は「扶桑社通信 虹 平成18年7月号」


この2つの画像から、李春光は、八木らと同じ会合に参加していたことが証明されます。
名札の作り、壁の模様、コーヒーカップの色柄など、複数の共通点が挙げられます。
まさに「平成18年5月17日に両者は会っていた」という事実。
その会合=日中合同研究の正体は何か。
まさに日本軍による中国人民への加害の事実を書け、という要求を聞く場だったのです。

なお産経新聞は、すべての事情を知りながら、李春光が参加した、この会合の性格を報じていません。
報じることが日本教育再生機構、扶桑社、育鵬社に不利だからです。
中国の工作員に籠絡されたのは、鹿野道彦農水大臣らだけではないのにです。

また、いよいよ「新しい歴史教科書をつくる会」は育鵬社による歴史教科書盗作問題に関し、著作権という道義的問題を軽んじ逃げ回る相手側の誠意ある対応が見られない状況下において、教科書執筆者の後押しを込め、公然と批判し公開していく方針を決めました。

保守系と目されていて実は中国寄りの記述が多い「育鵬社」編集方針。
それが端的に表れているのが「南京事件あった」の立場による取り扱いです。
それは平成17年12月の八木秀次・当時つくる会会長・宮?正治事務局長らが中国社会科学院日本研究所に表敬訪問して、さんざん言い含められ、また翌年の日中合同研究まで開催する羽目になった経緯を振り返れば、「やっぱりな」という感慨が致します。

「つくる会」総会のご報告――――「南京事件」の虚構性を訴え、育鵬社サイドの謝罪を求めることの確認
http://tamatsunemi.at.webry.info/201207/article_1.html


育鵬社盗作問題に関する報告書 ―――目次、はしがき

http://tamatsunemi.at.webry.info/201206/article_11.html



以上 ご研究ください

[761] 中国社会科学院日本研究所 党歴偽情報 怪文書 Name:桜子 Date:2012/06/04(月) 13:08 [ 返信 ]
中国外交官のスパイがニュースを賑わしています。
「中国社会科学院日本研究所」に所属していたそうで、ここは日本の情報を集めたり何かするような所みたいです。
つくる会がたいへんなことになってしまっている原因の藤岡先生の党歴偽情報を、Y氏はどうやって知ったのかが、わかっていません。

検索していましたら、以下のようなものを見つけました。
投稿者はハンドルネームになっていますが、引用に当たり、* を使用しました。

当時は、流し読みしてしまいましたが、以下を読みますと、中国の罠にはまってしまった可能性がありますね・・・・・



──────────── 東京支部掲示板より 引用はじめ ────────────
[1703] 八木氏に対する疑惑 ***** 2006-05-13 17:07
>3月20日福地惇理事は八木、宮崎両氏と会談した。八木氏は自分の方から「警察公安情報」の存在を知っているか、と問うた。福地氏は「単なる噂ではないか、自分は見ていない。それは何処に根拠があるのか」と問い質した。八木氏は「単なる噂ではない。公安情報を正式につかんでいる。警察公安と自分はパイプがあって、これには確かな証言がある」と自信ありげに、得意げに強調した。
(西尾ブログ「怪メール事件(二)」より)

この党歴文書捏造疑惑について、一切の合理的弁明を八木氏は公にしないところから、私はこれが八木氏の作品であると判断してきました。しかし、5月13日付の西尾ブログ「『関係者に猛省を促す文』」に掲載されている、てっく氏筆の「つくる会クーデター未遂の考察」という文章を読んで、別の可能性もあるのではないかと思い至りました。それは、八木氏自身が中共の半スパイであるという仮説です。

党歴偽造文書が八木氏の作品でないとすると、誰かが八木氏のもとに持ち込んだわけです。そして、公安の友人なる人物から確証を得ている、と八木氏は言います。党歴偽造文書の内容が誤りであることは、事実によって検証されていますから、公安の友人なる人物は八木氏に嘘を吹き込んだことになるわけです。この人物は、中共のスパイである可能性もあります。

八木氏は、なぜこの人物の身元を明らかにできないのでしょうか。八木氏も党歴偽造文書に騙された一人であるのならば、騙した人物を守る必要などないはずです。そのうえ、この人物は中共のスパイかもしれず、それを告発することは国益にも適うはずです。唯一考えられる可能性は、その人物が中共のスパイであることを八木氏は知りながら、提供された党歴偽造文書を自分の政争に利用した場合です。もしそうなら、八木氏はその人物の身元を告白するのが難しくなります。なぜなら、その人物の身元に調査が及べば、八木氏は善意の第三者ではないことが明らかとなり、中共の謀略の片棒を担いでいたことが公になってしまうからです。

では、八木氏の中国訪問はどう位置づけられるでしょうか。中共が八木氏を招いたのは、八木氏を値踏みするためだと思います(のこのこやって来ただけでも、相当に脈アリです)。中共は、そこで、八木氏は籠絡できる相手だと判断したのでしょう。次に仕掛けたのが、八木氏の政争にとって都合のよい怪文書の提供です。もしも、これを八木氏が嬉々として自分の政争に使えばしめたものです。出元は中共なわけですから、それを知りつつも使ったとなると、八木氏は中共の手先になったことになります。もしも中共の意に沿わないようなことを八木氏がしようものなら、この事実を暴露すると脅せばよいのです。これは、スパイを作る際の常套的手口です。

種子島体制が続いて、そのまま既定路線通りに7月総会を迎えていたらどうなっていたでしょうか。中共にNOを言えない八木会長誕生です。では、今回のように八木氏が会を去ればどうなったでしょうか。保守言論界の分裂です。八木派の残党がつくる会攻撃を始めてくれますから、労せずしてつくる会を弱体化させられるのです。つまり、どっちに転んでも中共にとっては、ウハウハなのです。

八木氏が沈黙し続ける限り、怪文書偽造という疑惑だけでなく、中共のスパイという疑惑もぬぐい去ることができません。私は、八木氏が洗いざらい真実を告白することを求めます。中共の片棒を担いでいたとしても、それを告白するならば、その勇気に免じて、人々は八木氏の過ちを若さゆえのこととして許すでしょう。しばらくの冷却期間を置かなければならないとしても、そこから言論人としての再スタートを切ればよいのです。しかし、それをしないでいつまでも逃げ回っているようでは、「中共のスパイ」という疑惑は終生つきまとうことでしょう。

[1704] RE:八木氏に対する疑惑 ***** 2006-05-13 18:32
中共スパイ疑惑が真相であるとすると、こんな風だったのではないかと、推理します。

(1)謎の人物説
怪文書の提供者は、最初から身元は明かしません。ただ、公安の裏の取れている情報だ、と言って渡します。八木氏が怪文書をばらまいた頃合いに、自分が中共の手先であることをほのめかします。八木氏は、自分がばらまいた怪文書の宛先を回って「僕、中共の手先に騙されていた。だから、この前渡した怪文書は、取り消してね」なんて言えるはずがありません。つくる会の元副会長ともあろう者が、中共の謀略に乗せられるようなおっちょこちょいでは、会長返り咲きの芽は完全になくなってしまうからです。従って、怪情報の出元は決して明かせないのです。しかし、中共の謀略に乗せられた形の八木氏は、中共に弱みを握られたままです。

(2)中国”公安”情報説
中国関係者から直接情報を入手している可能性もあります。この人物は、八木氏に中国"公安"情報として、藤岡氏の党歴文書を渡します。中共は共産党ですから、他国の共産党情報を入手する経路はいくつも持っているでしょう。従って、信憑性があります。政敵を決定的に陥れる情報を入手した八木氏は、嬉しくなって方々に"公安"情報としてばらまきます。日本の”公安”情報を確認もせずにです。恐らく、後で間違いを知って青くなったでしょう。しかし、出元を明かすことは、自分が中共の手先として使われたことを暴露することになるので、どうしても言えません。これで中共は、八木氏の決定的弱みを握ることになるのです。

一度弱みを握られた人間は、次々に弱みを握られていきます。本意でなくても、金を?まされ、女を抱かされ、自分の弱みを確固としたものとするためのネタ作りに自ら協力させられるのです。そうして、完全なスパイになるのです。普通は良心の呵責に耐えられなくなるんですが、良心の呵責のない人間なら、両立出来るでしょう。そこまで、中共は見抜いていたのかも知れません。

[1705] RE:八木氏に対する疑惑 ***** 2006-05-13 19:11
>中国陰謀説なかなか説得力があります。大変興味深く読みました。
>ところで,「つくる会」理事の中に左翼勢力のスパイがいる可能性についてはどうでしょうか。例えば,平成3年に共産党を離党したと言明しているF教授とか。どなたか,解説をお願いします。
>Posted by: 隠れつくる会フアン at 2006年05月13日 17:43
(西尾ブログ「『関係者に猛省を促す文』」コメント欄より)

>実際、従軍慰安婦問題などについてのその後の私の言論活動に対する共産党の攻撃は熾烈を極めた
>スパイは既存の組織を弱体化したり破壊したりするために活動するものである。ところが私は、自由主義史観研究会や「新しい歴史教科書をつくる会」などをゼロから立ち上げてきたのである。
(藤岡氏筆「私の党籍問題について」より)

以上の藤岡氏の文章が、隠れつくる会ファン氏の疑念に対する、論理的反証になっているでしょう。そういえば、左翼メディアはあまり八木氏を攻撃しませんね。『論座』に至っては、西部氏と対談の席まで設けている。とはいえ、八木氏が左翼のスパイと決まったわけではありません。八木氏が中共のスパイに仕立て上げられそうになった可能性がある、というだけです。八木氏が真実を告白すれば、全ての疑惑を晴らすことができます。また、左翼メディアが八木氏を持ち上げるのも、八木氏がスパイだからではなく、左翼にとって危険ではないからでしょう。

[1706] RE:八木氏に対する疑惑 ** 2006-05-13 19:32
 八木秀次の振る舞いは、どうもおかしかった。
1.自分を7月に会長にするので無ければ、承服出来ない、と種子島に伝えた・・解任された男にしては妙に強気で、不自然だ。普通は不徳の致す處を反省する筈だ。
2.産経記者に対する入れ知恵、藤岡の党歴偽造、西尾先生への怪文書送付など、後で調べれば直ぐに捏造だと露顕する様な幼稚な策謀を、妙な自信と気楽さで実行しており、普通の日本人の振る舞いとしては、どうもおかしい。
 何かの後ろ盾に支えられていたのでなければ、日本人はあんな行動はやらないのじゃないか。


[1714] RE:八木氏に対する疑惑 ***** 2006-05-14 16:29
渡辺記者がゲロったために、八木グループは自分たちで作った怪文書を方々に撒いてきたことが明るみに出ました。しかし、渡辺記者がゲロったりしなければ、第三者が送った出所不明の怪文書として言い逃れできたわけです。ですから、八木グループは、言い逃れ出来る範囲で謀略に手を染めていたと考えられます。そうすると不思議なのは、八木・宮崎両氏が自信たっぷりに、藤岡氏の偽党歴文書を公安の裏が取れていると言って、福地氏に見せていることです。党歴文書が自分たちで作ったものなら、それが偽物であることを知っているわけです。従って、福地氏への工作がうまくいかず、藤岡氏本人に知れてしまったら、その時点で言い逃れがきかなくなることも知っているはずです。なぜ、こんな危ない橋を渡ったのでしょう?

一つの可能性は、本当に馬鹿だったというものです。この場合は、偽党歴文書は自分たちで作ったものなのでしょう。もう一つの可能性は、本当に裏の取れている情報だと八木・宮崎両氏が信じていた場合です。裏が取れていると確信しているから、勝ち誇ったように福地氏に見せた。しかし、裏とは、日本の公安ではなく、中国の公安であった。中国の公安情報に誤りがあるとは思いもしなかったがゆえに、日本の公安に確認もしなかった。そう考えれば、説明がつきます。

以下は、情報入手に関する「中国”公安”情報説」の別ヴァージョンです。中共から偽文書の提供を仕掛けた、とするよりもこっちの方が可能性が高いかも知れません。

(3)八木氏からの依頼説
八木氏は、中国訪問によって中国社会科学院とパイプが出来ました。もしも、元共産党員である藤岡氏と中共との間に過去に何らかのつながりがあれば、藤岡氏を攻撃する材料に出来るかも知れない。そう考えた八木氏は、中国関係者に藤岡氏について何か裏が取れないか情報提供を依頼したとします。そして、出てきたのが中国公安部にある藤岡氏の党歴情報です。党員であった時期がつくる会の活動時期とかぶることを見つけて大喜びしたでしょう。しかし、当然、それは中国語で書かれているので、そのまま出せば自分たちが中共とつながっていることがばれてしまいます。そこで、これを日本語に訳し、西暦を元号に変えるなどのもっともらしい修正を施してから、出所不明の怪文書として撒いたのでしょう。怪文書は、たまたま八木氏の元にも送られたことにし、知り合いの公安にも確認をとったことにする。八木氏と宮崎氏は、こう口裏を合わせておいて、福地氏に対する工作に使った。そう考えれば辻褄が合います。

八木氏が確認をとったとする公安の友人の身元を明かせないのは、そんな人は元々いないからです。いるのは、中国公安の機密情報を提供してくれた、中共の工作員だけです。藤岡氏の党歴についての誤りは、中共の工作員が仕組んだものではなく、本当に間違った情報が中国公安には記載されているのかもしれません。しかし、中共の協力のもとに政敵を葬ろうとしたという事実は、中共の手先として動いたということになり、八木氏にとって致命的です。中共にとって真に脅威なのは、右派分子として反日記念館にも祭られている藤岡氏です。のこのこ社会科学院にやって来た八木氏は、これから手なずける相手です。八木氏から藤岡氏についての情報を求められたとき、中共は八木氏が藤岡氏と対立しているとピンと来たでしょう。藤岡氏を葬るためであれば、中共は八木氏に協力を惜しまないはずです。だから、中共は機密情報を八木氏に提供したのでしょう。また、中共から機密情報を得て政争の道具に使ったという事実は、八木氏にとって大スキャンダルですから、格好の脅しのネタにもなるわけです。

[1715] RE:八木氏に対する疑惑 ***** 2006-05-14 16:38
>警察公安情報 藤岡教授の日共遍歴
>日共東京都委員会所属不明
>S39 4月16日開催の道学連在札幌編集者会議出席、
>    道学新支部再建準備会出席
>S41 北海道大学大学院教育学部所属
>S56 東大教育学部助教授
>H10 東大大学院教育学部研究科教授
>H13 日共離党

改めて、この怪文書を見てみます。もし、これが中共から得た情報を日本語に翻訳して作ったものであるなら、合点がいく点があります。それは、「日共」という言葉遣いです。日本語の文脈では、「中共」や「日共」というのは、揶揄するニュアンスが含まれます。公安の正式な記録を模すならば、いかに公安が日共をマークしていたとしても、あからさまに揶揄語を使うのは不自然です。普通に「日本共産党離党」とするのではないでしょうか。

そう疑問に思って、グーグルで「日共」という言葉を調べてみました。かなり後ろの方で、次の中国語のサイトにヒットしました。新華社通信でしょうか。

http://news.xinhuanet.com/newmedia/2003-07/24/content_990901.htm
>志位和夫?任日共中央?行委?会委??

「日共」という言葉が、揶揄語としてではなく、普通に使われていました。ちなみに、「中共」も中国語では揶揄語ではないようです。この文書が中共情報の引き写しならば、「日共」という言葉使いの説明がつきます。

中共情報を元にしているとすれば、もう一つ合点がいく点があります。「H10 東大大学院教育学部研究科教授」という明らかな間違いです。もしも、ゼロから偽造文書を作ったのなら、職歴部分はちゃんと調べて作るでしょう。重要なのは、離党に関する部分だけなので、教授就任の時期を偽造するリスクは冒す必要がないからです。中共の誤った情報を鵜呑みにしていたとしたなら、これも説明がつきます。

[1720] RE:八木氏に対する疑惑 ***** 2006-05-14 21:57
>それから「怪文書1」なるものの藤岡氏の経歴?>>S39 4月16日開催の道学連在札幌編集者会議出席、?>    道学新支部再建準備会出席
>↑こんな経歴を八木氏が思い付きで書けるわけがない。少なくともこの部分は何らかの公的機関の調査であろう。
>
>Posted by: 共産主義研究者 at 2006年05月08日 20:08
(西尾ブログ「哭泣の書」コメント欄より)

ずっと上のコメントが気になっていました。藤岡氏は、日共党員だったわけですから、学生時代も民青の活動歴があるでしょう。日共歴の情報を偽造するならば、民青系の活動歴を持ってくるのが普通です。しかし、なぜかそのことには触れず、道学連という団体の会議に出席した記録だけが、唐突に記されています。

一つの仮説を考えてみます。昭和39年は、西暦に直すと、1964年です。ちょうど文革の時期に重なります。文革の是非をめぐっては、日本の左翼内部でも激しい派閥争いがあったと聞きます。当時の中共の関係者にしてみれば、日本の左翼人脈が中国寄りかそうでないかについて、当然に強い関心があります。もしも、「道学連在札幌編集者会議」や「道学新支部再建準備会」が毛沢東派の集会であったのならば、その参加者のリストは貴重な諜報資料になります。また、中共がリストを入手するのも容易なはずです。そう考えれば、この唐突さの説明がつきます。

また、この昭和39年の道学連の情報以外には、藤岡氏の左翼関連の情報として記されているのは「H13 日共離党」だけです。なぜこんなに空白があるのでしょうか。道学連系の会議に藤岡氏は二度ほど顔を出したものの、その後は日共党員として民青系の活動に移り、中共には情報が入らなくなった。そう考えれば、この空白を説明することができます。

さらに仮説をすすめます。なぜ、藤岡氏の経歴情報にはあんなに年度の間違いがあるのでしょうか。

>S41 北海道大学大学院教育学部所属
>S56 東大教育学部助教授
>H10 東大大学院教育学部研究科教授
>H13 日共離党

平成10年の情報には、「東大大学院教育学部研究科教授」とだけあり、東大大学院教育学部研究科教授「就任」とはなっていません。日本の公安情報を模すならば、「就任」の字を入れないのは不自然です。一つの推理は、ここに記されている年度は、中共が確認できた年度なのではないかというものです。つまり、「少なくとも平成10年の時点で東大大学院教育学部研究科教授であったことが確認された」「少なくとも平成13年の時点で日共を離党していることが確認された」というふうに、読むべきなのではないでしょうか。それを、日本人の感覚で、「平成10年に東大教授に就任した」「平成13年に日共を離党した」と八木氏が読んだために、錯誤が生じた。そう考えると、辻褄が合います。

もちろん、上に述べた仮説は全て私の妄想に過ぎないのかもしれません。本当は、八木氏はゼロから怪文書を作ったのかもしれません。しかし、それを検証するには、八木氏の重い口が開くのを待つしかないのです。
──────────── 引用おわり ────────────

[763] 中国社会科学院日本研究所の発表 Name:桜子 Date:2012/06/06(水) 17:20
http://fmm.sakura.ne.jp/H24/H24newpage.html

[764] 怪文書作戦 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:10
会長を堕ろされた八木氏は、藤岡先生の信用を失わせる党歴偽情報の怪文書作戦が成功して、会長に復帰することに決まりました。

これに味をしめたのでしょうか、今度は藤岡先生をつくる会から追い出そうと西尾幹二先生を利用するつもりで怪文書を送ったのです。

怪文書にのせられた西尾幹二先生は、つくる会存亡ののリスク背負って、これらを公開されたのです。

その結果、八木氏しか持っていないはずの文書が怪文書に使用されていることが判明しました。
その後の理事会で、説明を求められた八木氏は、その場でつくる会から去りました。

本当に残念ですね。

八木氏だって、間違えたのですから、謝れば良かったのです。

最近の中国外交官がスパイだった報道があり、その人が関係している中国社会科学院日本研究所が、平成17年12月に、つくる会会長として八木氏が中国で懇談した相手でした。
つくる会東京支部MLで話題に上りましたので、ここに投稿致します。


年表−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■平成18年2月27日  八木氏、会長職を解任される。
●2月28日産経記事  
●3月1日産経記事
●3月2日産経記事
■■ 党歴偽情報の怪文書作戦 西尾幹二先生宅へは、平成18年3月8日と9日
●3月9日産経記事
●3月11日産経記事
■平成18年3月28日 八木氏、会長職に復帰することが決まる
●3月29日産経記事
■■ 西尾藤岡往復文書の怪文書 西尾幹二先生宅へは平成18年3月30日、31日、4月1日
■平成18年4月8日 西尾幹二先生が怪文書を公開
■平成18年4月30日 八木氏ら、「つくる会」を退会。
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[765] 2月28日記事 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:12


「藤岡信勝ネット発信局」より引用

 まず、上の、2月28日の記事では、【理事会では、八木会長が昨年12月に理事会の了承を得ずに中国を訪問し、知識人と歴史認識について論争したことを問題視する意見が多数を占め、辞任を迫られたという。八木会長は「つくる会幹部の外国訪問はこれまでも前例があり、納得がいかない」と話している。】とある。ここには2つの問題がある。

 第一に、八木会長の解任理由は、「この間の会運営について指導力を欠き、事態を混乱させた責任」が問われたものであり、中国訪問はそのうちの事例の一つにすぎない。中国訪問が問題にされたことは事実だが、それだけが理由では決してない。その点を歪曲している。渡辺記者は解任の背景について八木氏サイドからのみ取材し、多数派の理事の取材をしていない。解任理由を中国問題にしぼったのは、雑誌『正論』が八木会長の中国社会科学院日本研究所との議論を2回にわたる異例の連載で紹介したため、中国問題にしぼれば、会は産経を批判しにくいという狡猾な計算をした可能性がある。

 第二に、八木コメントでは、話を外国訪問一般に解消しているが、つくる会会長の立場にある者が、中国という共産党独裁の謀略国家を訪問し、準備もないまま不用意に国家機関である中国社会科学院と論争することの政治的問題性を見てない。もっとも、これは記事の問題というよりも八木氏の問題であるかもしれないが。

 

「政治的問題性を見てない」のではなく、その逆の可能性もあります。
論争相手が「知識人」ではなく、中国の国家機関である「中国社会科学院日本研究所」のほうがすごいように見えますから。
あるいは、文字数の関係かとも思いましたが、そうではなさそうです。

[766] 3月1日 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:13


    

[767] 3月2日 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:14


      

[768] 3月9日 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:15


 

[769] 3月11日 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:16


        

[770] 3月29日 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 00:18


   

[772] 平成18年3月29日付け産経新聞報道記事の問題点 Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 11:01

       

[773] 真実の重み Name:桜子 Date:2012/06/08(金) 17:26
藤岡ブログより
□4月30日の理事会で話したことなど
                                  鈴木 尚之

 私は、今でも八木さんたちが「つくる会」の役員を辞めて会を去ったことを本当に残念だと思っている。そもそも私が再びこの会に関わるようになったのは、この大切な会を絶対に分裂させてはならないと考えたからであった。
 1月17日、インターネットのブログに西尾先生が「つくる会」の名誉会長を返上したとの情報が載ったことがきっかけであった。これは危ない。このまま行けば会は分裂するかもしれないという危機感をその時持ったのである。そこで早速八木さんと連絡を取り夜8時半頃会って「このまま行けば会は分裂する。会が分裂すればその傷口が戦場となってしまう。そうなると本来われわれが戦ってきた反日左翼を喜ばせることになってしまう。教科書改善の取り組みがストップしてしまうじゃないか。だから、何があっても分裂はさけるべきだ。片翼の飛行機では飛べない。ふたりが力を合わせ両翼となって『つくる会』は前進していくべきだ」と説いた。そして「直ちに藤岡さんと会うべきだ」と言ったところ、八木さんが「会ってもいい」と言ったので、すぐに藤岡さんに電話で連絡し、藤岡さんの家の近くの居酒屋で会うことになった。正直言って話はなかなか進まなかった。2時間ほど話した結果、両者は握手をした。話終えたのは11時30分を越えていた。その時、両者から私に「両者が手を結んでやるからぜひ事務局に入ってほしい」と要請された。しかし、私の都合もあって直ちに事務局に入ることは無理なので、2月から常勤ではなく、非常勤として必要なときだけアドバイザーを勤めるということになった。
 だから2月中は非常勤の形で必要な時だけ事務所に出向いていた。ところが、2月27日の理事会でとんでもないことが起こった。八木副会長と藤岡副会長の両方が解任され、事態を収拾するために種子島会長が選出される事態となってしまったのだ。この混乱は、理事会の冒頭、新田理事が「藤岡副会長の除名動議」を提出したことからはじまった。あの時この動議が可決されていたら、藤岡さんは除名され、事態は全く別の方向に進んでいたに違いない。しかし「藤岡除名動議」は否決されたのである。その直後事務局員は会場から退出したので、その後理事会でどの様な議論が展開されたのか私は知らない。
 このような事態を受けて、私は種子島会長から常勤として入ることを要請され事務局に入ったのである。
 それから4月30日までの2ヵ月間、私は誠実に事態の解決に向けて努力を続けた。八木さんは、『諸君!』7月号のなかで、私が「『まとめ役』と言いながら実際には『こわし役』をやっていたのではないか」とか、「そもそも宮崎氏の更迭を言いだしたのはX氏(鈴木を指す−引用者)だった」などと言っているが、それは全く根も葉もないことで、何で八木さんが今になってこんなことをいうのか私は不思議な気がする。この件に関し、私には一点の曇もない。とかく人は、自分が悪くないというために他人を悪者にするものだが、八木さんも所詮は「並み」だったのかと思うと残念でならない。
 私は、何とかして分裂の事態を回避するために、真剣な努力を繰り返した。西尾先生からは、「あなたは余計なことをしている」と何度も電話で叱られたし、八木さん、藤岡さんの双方からも「あなたは一体どちらの味方なのだ」と詰め寄られたことも度々あった。西尾先生にはどんなに叱られても「必ず手を結ぶことはできるはずです」と言いつづけたし、八木さん、藤岡さんに対しては「私はどちらの味方でもありません。真ん中です。手を結んだ体制をつくることが私の任務です」と言いつづけた。私が今日までの間、一切の弁明をしなかったのは、事態が解決すれば必ず理解してもらえると信じていたからである。 正直言って、3月28日の理事会で、すべてうまくいく形ができたと思った。しかし、翌3月29日の産経新聞の記事が、それまでの努力の結果をすべてぶち壊してしまったのである。本当に残念なことであった。7月の総会では、八木会長が誕生し、藤岡さんとも手を携えて会の前進をはかっていける体制ができたというのに、何ということだ、と思った。問題となった「西尾元名誉会長の影響力排除を確認」の件は、八木さんが軽率に記者に軽口を叩いたことが原因、「宮崎元事務局長の事務局復帰も検討」の件は、記者の「つくる会」運動への不当な介入が原因であることがその後明らかになっている。産経の記事が出たあと、記者に八木さんは「確認とまでは言っていない」などと言って電話でやりとりをしていた。私はそれを八木さんのすぐ前で聞いていた。つまり、折角の努力を、八木さんの軽率さが壊してしまったのだ。残念でならなかった。

 それでもなお何とかならないものかと私は考えていた。しかし、そうこうするうち、とんでもない情報が入ってきた。
 事態をまとめようと努力している最中の3月20日、八木さんが宮崎氏とともに福地さんに会い、例の「藤岡さんの党歴虚偽情報」について、八木さんが「あの情報は公安調査庁に確かめたところ間違いない情報だ」と話して多数派工作をやっていたという情報である。この情報は福地さんが書面にして証言しているというのだ。この件については、八木さんが私にも「公安調査庁云々…」と言って話したことがあるが、その時に私は「そんな不確実で第三者に証明できないようなことを絶対言ってはなりませんよ」と注意していたことだったから、私は愕然とした。このことが外部にもれれば、八木さんの言論人としての生命、学者としての生命が断たれる事態になるとの危機感を咄嗟に持った。だからその後八木さんに会ったときに、「何で公安調査庁云々…などと言ったのか。あれば完全なでまですよ」と強くたしなめが、八木さんは「だって公安調査庁がそう言っているんだから……。公安調査庁のデータが違っているのかも…。公安調査庁に確かめてもらえばいい」などと言って話をはぐらかそうとする。これに対して私は、「この問題はそんなに甘い問題ではない。本当に公安調査庁がそんなことを言ったとするなら、まずはじめに藤岡さんにそのことを伝えるべきではないですか。藤岡さんに黙っていて、よその人にそのことを言いふらすというのは、悪意があるということになるじゃないですか。この問題の処理を誤ればあなたは保守派言論人としての生命を失うことにもなりかねませんよ」と言った。これに対し八木さんは、「だって公安調査庁が…。そんなに重大かなぁ」などと言って取り合おうとしなかったのである。
 そして次に出てきたのが、西尾先生宅に送られた4通の怪メール(FAX)である。この怪メールについて、そのうちの一通は私が八木さんに渡したものである。もう一通は、3月28日の理事会に出席していなければ絶対に書けない内容のものであり、4通はすべて関連している内容のものである。八木さんは『諸君!』で「わたしのあずかりしらないことである」ととぼけているが、そんなことで言い逃れができるはずがない。これもまた、八木さんの保守派言論人としての生命に関わることである。
 事実、4月4日午後2時に東京駅前の丸ビルで私と会った産経新聞の渡辺記者は、「鈴木さん、申し訳ありません」と突然喫茶店のテーブルに頭をこすりつけて謝り、「とにかく謀略はいけまん。謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略は止めようと言ったので、もう謀略はありませんから…。私は、産経新聞を首になるかもしれない」と言ったのである。この記者は、同じことを藤岡さんにも言ったとのことが後ほどすぐに明らかになったのである。このことを知って私は、八木さんに「産経の記者があなたにどんな話をしているのかわからないが、藤岡さんに話したことと同じことを私にも言っているのだから、これはもう重大なことですよ。最悪のことを考えて対処しないと大変なことになりますよ。とにかく記者は顔色をなくして私にこう言ったのだから。謀略はいけない、謀略はいけないと」。そのとき八木さんは、「謀略文書をつくったのは産経の渡辺君のくせに・・・・・・。彼は、1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていたんだから・・・・・・」とつぶやいたのである。
 以上のことは、4月30日の理事会で、特別の許可を得て私が報告した内容である。それは、八木さんを糾弾するために言ったのではない。八木さんが、このような「禁じ手」を使ってしまったことを真剣に反省し謝罪しないかぎり、八木さんに保守派言論人としての未来はないという危機感を持ったからであった。
 それでも八木さんは、謝罪することなく、「つくる会」を去って行ったのである。八木さんが立ち上がったときに私が、「八木さん、残念です!」と叫んだのはこのためである。 私は、事務局は理事会内の党派に与すべきではないと一貫して考えている。事務局は、理事会で決定したことを誠実に、しかも熱心に実行する存在でなければならない。この考え方に立って事務局も早急に再建しなければならないと思っている。(6月10日)



その後もずっと鈴木尚之氏は、八木氏を大切に思っているようでした。

[771] てすと Name:都会の女子高生 Date:2012/06/08(金) 00:31 [ 返信 ]
6理事辞任に至る経過報告
−理事会内の混乱終結にあたって−


       平成18年7月2日









              <目  次>

1 事務局長人事問題の発端(平成17年8月)
2 コンピューター問題の発覚(10月)
3 4理事の行動と八木会長の変節(平成18年1月理事会まで)
4 幹部役員の大量辞任から八木執行部の解任へ(2月理事会まで)
5 種子島体制とその変質(3月理事会まで)
6 謀略の発覚と八木氏ら6理事の辞任(4月理事会まで)





新しい歴史教科書をつくる会






■1 事務局長人事問題の発端(平成17年8月)

 (1)今回の理事会内部の混乱は、事務局長人事に端を発するものである。事務局長人事が最初に公的な場で提起されたのは、翌月に定期総会を控えた平成17年8月27日であった。この日開かれた執行部会で、種子島副会長が自らの退任を申し出、「宮崎事務局長も(会の在職期間が)6年続いたので、事務局刷新のため退任してはどうか」と提案した。執行部は、八木会長と遠藤・高森・種子島・藤岡の4人の副会長で構成されていたが、この日の会議に出席していたのは八木・種子島・藤岡の3人であった。種子島氏は西尾名誉会長に対しても、「宮崎氏はよくやっているが、任期が長引くことに必然的に伴うマンネリズムがある」との見解を伝えていた。
八木会長の当時の認識も、「宮崎氏は実務的な仕事を若い人に任せず何でも自分でやってしまうので、若い人が育たない。アポを取るなどの仕事は他の職員にやらせればいい。人を使えない上司のもとでは、みんなの仕事がうまく行かない」というものだった。 藤岡副会長は、採択活動における宮崎事務局長の消極的姿勢、たたかう意思の欠如を指摘していた。また、支部や採択地区からの情報を独占し、八木会長や藤岡採択本部長に適切に上げないことも問題で、再三指摘したが改善されなかった。このように、宮崎氏と直接接触のあった幹部の認識は、事務局長としての宮崎氏の仕事ぶりに改善すべき問題があると見る点で共通していた。

 (2)8月31日、八木会長、遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長の4人が顔を合わせる機会があり、その場を利用して事務局長人事問題を非公式に検討した。その結果、「宮崎氏は事務処理等においては有能だが、事務局長職はある意味で会の『顔』であり、攻めの姿勢を持つ人物が望ましい」との見方で一致した。
 ただし宮崎氏を解雇するという発想はまったくなかった。事務局長が運動面でリーダーシップを発揮することはもちろん重要だが、運動組織にとっては事務処理を遺漏なく進めることもそれと等しく重要である。宮崎氏に両方を求めるのが無理であるならば、運動面をリードする幹部職員を別に招聘し、宮崎氏との役割分担をはかるのが妥当ではないかとの結論に至った。確認されたのは、人事の「刷新」ではなく「強化」である。
 具体的には、運動面で会をリードする幹部職員を事務局長として招聘する、宮崎氏の処遇については事務総長に就任させるか理事に昇格させる、などの案が出された。ただし、この点に関してこの日は結論には至らなかった。小さな会で「事務総長」はいかにも大仰であるし、理事に昇格させると、つくる会には「理事は無給」の原則があるため、宮崎氏に給与が支払えなくなるといった事情があったためである。会の運動面を強化するのと同時に、宮崎氏にも引き続き職員として一定の役割を担ってもらうというのが、当時の幹部間の共通認識であった。
 このとき新事務局長候補として何人かの名が挙がったものの、誰を推挙するとか、有力であるといった話は一切出ていない。むしろ、より広い視野から適当な候補者を発掘するために日本会議の椛島事務総長に相談してみてはどうかとの意見が出、当時椛島氏と接触する機会の多かった西尾氏が、これにあたることになった。西尾氏は機会をとらえて椛島氏にことの次第を打ち明けて協力を依頼したが、その後椛島氏からは特に連絡もないまま過ぎた。

 (3)西尾名誉会長は、9月中旬、西東京支部で活動していた濱田実氏と電話で話す機会があり、思い立って、つくる会の事務局長として来る意思がないかと打診した。おおむね肯定的な返事だったので、西尾氏が藤岡副会長に伝えたところ、八木会長の事前の承諾を得ないまま相手先に声をかけてしまったことに危惧を抱いた藤岡氏から、「八木会長に至急話して同意を得る必要がある」と進言があった。西尾氏はそれに従い、八木氏からは一応の承諾を得た。
 初動の際の西尾氏の先走りともいうべき行動は、あくまで会を思う至情から出たこととはいえ、後に八木氏が不満をもらす要因となった。ただ、この件については、のちの12月25日の執行部会において西尾氏は八木氏に謝罪したし、八木氏も以後このことの責任は問わないと述べた。また、翌年1月16日の理事会の冒頭でも西尾氏は自身の行動を軽率であったとして謝罪した。これらによって、西尾氏の先走りの問題については決着がついた。

 (4)9月17日、全国の中心的な活動家を交えた採択活動者会議が開かれ、採択戦の総括が行われた。その懇親会終了後、八木会長、藤岡副会長、西尾名誉会長の3人は宮崎氏との会合の場を設定し、宮崎氏に対して事務局長退任と配置転換を打診した。処遇については、事務総長案や理事就任案などいろいろあり得るとした。話は西尾氏主導で進められ、藤岡氏はおおむね西尾氏に同調し、八木氏はあまり明確な意見を述べなかった。ただし、八木氏は西尾氏に反対する意見などは一切述べていない。なお、当時つくる会の幹部は八木会長はじめ多忙を極め、一堂に集まる機会がなかなか得られなかったという事情があったとはいうものの、酒席の延長で重大な話を切り出すのは宮崎氏に対して非礼に当たる点がなかったとは言えない。
 このとき宮崎氏は一旦、「それなら会を辞める」と強く反発したが、「家族と相談して冷静に検討してほしい。明日返事をもらいたい」との西尾氏の説得に従い、「考えさせてほしい」と引き取った。
 宮崎氏は、この件を日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏に相談したが、その際、自分は採択の敗北の責任を全て押しつけられたと説明し、これに激怒した伊藤氏は、のちに「(被雇用者という)弱い立場の者に責任を押しつけるとは何事か」と西尾氏に怒りを表明するということがあった。しかし、以上の経過からも明らかなように、執行部が採択の敗北責任を宮崎氏一人に押しつけたという事実は全くなく、あくまで事務局強化の一環として人事を問題にしていたのだから、宮崎氏の訴えは事実に反する。
 宮崎氏は、翌日の9月18日に事務局長退任について拒否回答した。このとき宮崎氏から「(有給の)専務理事ではどうか」との逆提案があったが、「理事は無給」の原則に反すること、専務理事では権力が集中しすぎる恐れのあることなどから、執行部の受け入れるところとはならなかった。

 (5)9月25日、つくる会の第8回定期総会が開催された。総会では、採択戦の総括を行い、「つくる会」大躍進へ向けた強化方針を決定し、役員の新人事を承認した。採択戦については、敗北の主体的要因として、戦術面における「著しい受動性・消極性」があったこと、不当な攻撃に対しても機敏に反撃する姿勢に欠けていたことが指摘された。それを踏まえて、強化方針では、「運動」担当専任職員の配置、人事の刷新・強化、などがうたわれた。
 新執行部は、八木会長と、遠藤・工藤・福田・藤岡の4副会長の5人によって構成されることとなった。遠藤副会長は新人事の提案において「(刷新ではなく)態勢の強化だ」と強調。役職員の「入れ替え」ではなく「補充」によって会の強化をはかることが方針であり、特定の人物の退任による「刷新」ではないとの執行部の姿勢を示した。
 9月28日、遠藤副会長は八木会長に対して「会長として事務局長人事をどういう方向に持って行く考えか。事務局長は会長のパートナーなのだから、あなた自身が指導力を発揮すべきだ」と進言した。八木会長は「運動面の強化は必要だし、宮崎氏に対する不満もあるが、自分としては当面宮崎事務局長を辞めさせる考えはない」と返答した。

 (6)10月9日、執行部会を開き、事務局長人事は当分据え置きとし、濱田氏を事務局次長として補充する人事を行った。ただし、この会議で濱田氏をその先事務局長に任用するとの暗黙の合意も決定も一切行っていない。会議では、翌年3月をめどに、宮崎、濱田両氏の処遇を含め事務局を抜本的に改組するという方針を決定した。
 10月19日、八木会長、遠藤・藤岡副会長は、宮崎事務局長に会い、9日執行部決定を伝えるとともに、事務局長と事務局次長の役割分担等の事務局の体制について打ち合わせを行った。

■2 コンピューター問題の発覚(10月)

 (7)10月下旬、事務局をめぐる2つの問題が持ち上がった。10月21日、この日より濱田・新事務局次長が出勤するにあたり、紹介をかねて事務局員の会議に遠藤・藤岡副会長が出席し、あわせて翌年3月までに事務局の体制を根本的に再検討するという執行部の方針を伝えた。会議後、藤岡副会長は会員管理システムについて保守サービスが十分受けられないという問題が生じている旨を、偶然の機会に担当職員から知らされた。その職員は宮崎事務局長に再三にわたり改善を求めてきたが、一向に対処しないばかりか、返って事務局のなかで疎外される状況にあった。問題は3年前の会員管理ソフトの発注時から始まっていることもわかった。執行部としては、緊急に経過と実態を詳細に調査する必要があると判断した。
 コンピューター問題の発覚とたまたま同時期に、八木会長は八木夫人の発案を生かして、事務局員に採択戦後の会の活動のあり方について思うところを述べるレポートを書かせた。提出した事務局員全員のレポートをまとめた文書が、会長の指示で、事務局から執行部のメンバーの自宅に送られた。それによって、服務規律の弛緩、職務分掌の不明確など、事務局に改善すべき基本的な問題のあることが判明した。事務局の実務方面は万全であると見られていただけに、衝撃があった。いずれにせよ、執行部は、コンピューター問題を含め、事務局の問題に緊急に対処する必要に迫られた。
 10月28日、執行部会が開かれ、八木会長の提案に基づき執行部内に事務局再建委員会を置き、その下部組織としてコンピューター問題調査委員会を設置した。調査委員会には、八木会長、遠藤・藤岡副会長の3名に加えて西尾名誉会長が参加、調査の内容に応じて高池理事、富樫監事にも出席を要請することとなった。また、これも八木会長の提案で、事務局の執行部管理を決定した。このとき八木会長は「コーンパイプ」(日本の占領統治のため厚木飛行場に降りたマッカーサーがくわえていた)という言葉を使い、「執行部による事務局直轄統治だ」と、意気込みを示した。
 これらの措置は、同日の理事会で報告され、承認された。八木会長はこの日の執行部の会議とその後の理事会で積極的に発言し、方針の立案と執行を主導した。会長のリーダーシップが発揮されていた。八木会長は、この段階で、鈴木尚之氏を事務局長に任用する構想を抱いていた。理事会後、理事の懇親の場が設定されたが、八木会長は参加せず、その時間に事務局員数名と会って、「鈴木事務局長案」を示し、事務局員の感触を確かめていた。鈴木氏は採択期間中の8月末まで、つくる会の事務局の一員として活動しており、事務局員は会長案に積極的な賛意を示した。

 (8)10月31日、藤岡副会長、高池理事、富樫監事が事務所に出向き、執行部会の決定に基づき、事務局の執行部管理を通告した。宮崎事務局長は、この日からコンピューター問題を調査する期間に限り、自宅待機となった。ただし、それは事務局長の更迭や罷免を意味するものではないことも説明した。
 11月2日、事務局再建問題及び会員管理システム問題に関する調査のためのヒアリングを開始した。主な内容は以下の通りであった。
 2日 会員管理システムに関する事情聴取(丸山・田村事務局員、宮崎事務局長/遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長、高池理事、富樫監事)
 4日 事務局機能全般に関する意見聴取(的場・福原・土井・高橋・丸山・平岡事務局員/八木会長、遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長)
 8日 会員管理ソフトの受注側であるコンピュートロニクス株式会社からの事情聴取(平岡真一郎氏/遠藤・藤岡副会長、高池理事、富樫監事)
 9日 現行会員管理システムに対する第三者業者による調査・点検(コアサイエンス社/藤岡副会長、丸山事務局員他)
 同日 宮崎事務局長への事情聴取及び今後の対応に関する協議(宮崎事務局長/八木会長、遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長)
 12日 種子島理事(発注時の財務担当副会長)への電話による事情聴取(種子島理事/藤岡副会長)
 
 (9)11月12日、拡大執行部会(八木・遠藤・福田・藤岡、及び西尾・高池の各氏が出席)は、上記の調査に基づき調査報告書を確定し、執行部(および理事会)と宮崎事務局長の責任を問う処分案を決定した。同日、宮崎氏に口頭で通告するとともに、全理事に送付した。八木会長は、この会議でも積極的に発言し、宮崎氏の人事案件を推進した。この日、確定した「会員管理システム問題にかかわる調査報告」をもとに事態の経過をかいつまんで述べれば、次の通りであった。
 平成14年10月に導入された現会員管理システムは、不具合が生じてもシステム開発業者であるコンピュートロニクス株式会社(以下「コ社」)によるメンテナンス業務が十分に行われないという問題が平成16年秋以来発生していた。コ社とつくる会との間には保守契約が締結されているのであるから、軽重を問わずシステムに障害が発生した際に即座に対応しないのは契約違反であると言える。これに対してコ社側は「つくる会から毎月受領している11万円はシステム構築料の分割払い分であり、保守契約は名目にすぎない」との解釈をとり、契約を根拠とした保守業務に難色を示した。
 一方が契約に基づきメンテナンスを求めるのに対して、もう一方が「契約は名目的なもので、実際は保守契約ではない。メンテナンスは別に請求し有償で行う」と主張するのは奇妙な事態である。メンテナンスが満足に受けられないという、現実に起こった問題の原因を明らかにするには、契約時の事情にまで遡らなければならない。
 そこで、どういう経緯で現行システムが導入されるにいたったのか、事実経過を調査し、併せて直接の執行責任者として宮崎事務局長がどのような認識をもって事に当たったのか、問題が明らかになった現在、どのような認識を持っているかについてヒヤリングを中心として調査を行った。
 事実経過に関しては会の記録、宮崎事務局長による経過報告を主たるソースとし、それに富樫監事、平岡氏(コ社)、種子島理事らの証言を加味した。調査の結果明らかになった問題点は次の通りである。
 @つくる会の性格や財政規模を勘案した上でどういうシステムが必要であるのか、どういうプログラムの仕様を業者に求めるかについて十分な検討がなされないまま、安易な発注を行った。
 A場当たり的に機能の追加や変更を繰り返した結果、コストが高騰し、制作費の一部を保守契約の名目で分割払いとするかのような弥縫策が取られたため、保守契約に関する玉虫色の解釈が生じる一因となった。
 B新システムへの移行に際して、最初から業者をコ社一社に絞り込み、複数業者による「相見積」等の措置をとらなかったため、同社との契約に関する不透明感を増大させ、コ社の提案や見積額が妥当かどうかの発注時点での検証が困難になった。
 C現行システム導入の狙いは、個人との契約にメンテナンスを依存していた従来の会員管理システムの不安定性を解消するために、企業との契約によって安定性を確保することだった。しかし、新システムのメンテナンスも、Aの事情のため、実態はコ社の平岡氏(つくる会会員)個人の善意に依存したものになってしまい、平成16年11月に同氏が担当を離れると同時に「安定性」は危機を迎えた。この時点でも、つくる会側は迅速な対策をとらなかった。
 D発注、支払や設計の変更など既成事実の積み上げが先行し、理事会(執行部)への報告や契約書・仕様書等基本文書作成などが事後的に取り扱われたため、理事会(執行部)全体として問題を認識・把握するのが遅れ、早期に適切な処置をとることが困難となった。
 E実務執行責任者たる宮崎事務局長は、会員の浄財で運営される本会において高額投資案件がわずか3年で危殆に瀕したという事態の本質を理解せず、その深刻性について執行部と認識を共有していない。
 
 (10)宮崎氏に対しては関係者の中で最も多くの時間をかけて事情聴取が行われた。弁明の機会は十分にあった。しかし同氏の応答は、不誠実なものであった。なぜ相見積りをとらなかったのか、なぜシステム仕様について徹底的な検討をせず場当たり的な要求を繰り返したのか、なぜ請求書もないまま525万円もの振り込みを行ったのか――といった疑問に対する返答は、「こんな小さな会だから、相見積りなどまったく考えていなかった」、「自分はコンピューターに関して素人だから、担当者に任せた」、「記憶にない」といった、事務局長職にある者としては誠実とはいえない回答に終始した。小さな会で財政事情が厳しいからこそ、またコンピューターに詳しくないのならなおさら、高額投資には細心の注意を払わなければならなかったはずである。しかし宮崎氏にはそういう問題意識はなかった。どういうわけか発注を急ぎ、請求書も来ないうちに支払いを先行させた。
 最も執行部を失望させたのは、宮崎氏が「一体、何か問題なのか」、「責任を問われるべきは承認した理事会だ」という姿勢に終始した点である。それどころか、同氏からは何度か「もう済んだ話だ。今更取り上げる方がおかしい」との発言が飛び出した。これには執行部は唖然とした。会員数8千名(当時)、年間予算5千万円の団体にとって総額1千万円の投資は決して小さなものではない。それだけの高額投資であるにもかかわらず安易かつ不明朗に発注されたことが今日起こっている問題の原因なのである。ところが、宮崎氏からは執行責任者としての反省の姿勢は全く感じられず、問題を取り上げる方がおかしいという態度を最後まで崩さなかった。このとき、宮崎氏を事務局長として温存することは、会にとって禍根になるのではないかとの疑念が、執行部メンバーに生じた。
 なお、宮崎氏と執行部との話合いは一貫して紳士的になされたし、その事実関係については宮崎氏も十分同意していたにもかかわらず、同氏が外部の人々に対し、「共産党がやるような査問をやられた」と、会に対する悪宣伝を吹聴したのは遺憾である。

 (11)宮崎氏は「コンピューター問題は存在しない」と主張したが、しかし問題を「無かったこと」にするわけにはいかない。そんな安易な姿勢では、浄財によって運営される会は成り立たない。もちろん、宮崎氏だけの責任を追及すればすむ話ではない。それを追認した執行部・理事会にも大きな責任がある。とはいえ、執行部・理事会は無定見な発注の実態について宮崎事務局長から報告を受けることなく承認を求められたのであり、全てが執行部・理事会の責任であるとする宮崎氏の議論は成り立たない。
 では、どのようにして執行部・理事会の責任を明らかにすべきか。発注当時の執行部の何人かは会を離れているし、直接の担当責任者だった種子島氏はすでに副会長職を退いている。そこで、現執行部と名誉会長の6名が、当時と現在の執行部・理事会の責任を代表して、総額百万円の罰金を会に納めることとした。理事は無給のボランティアであり、減給等の処分を下せないため、自分たちの財布から罰金を納めることによって象徴的な形で責任を明らかにしようとしたのである。
 宮崎氏の処分については執行部内でかなりの議論が行われた。「この際、解雇すべきだ」という主張もあったが、議論の末、結局、会員管理システム問題と事務局長の雇用問題は分離して処理すべきであるとの方針で執行部見解は統一され、「@事務局次長への降格、A3ヶ月間減給10%、B当分出勤停止」との処分案に落ち着き、11月12日に一連の措置がとられた。執行部としては、会員管理システム問題をもって宮崎氏を解雇することはしないとの結論に落ち着いたわけである。
 なお、「コンピューター問題はなかった」といった議論が後に一部で出回ったが、これは虚偽をもとにした悪質な宣伝である。第三者であるコアサイエンス社の技術者、システム開発にあたったコ社、本年3月以降コ者との契約が切れるという緊急事態に対応するためメンテナンスを依頼したK氏のいずれもが、一様にシステムの不安定性を指摘している。@不明朗な発注によって、A1千万円もの投資をし、Bそれがきわめて不安定な状況にある、という問題は依然として解決されていない。
 
 (12)執行部としては比較的軽い処分で収めたつもりだったが、「そもそも問題にする方がおかしい」との立場の宮崎氏は、納得しなかった。遠藤副会長は報告書の原案を宮崎氏に示し、事実経過等について正確でないところがあれば修正するとして、宮崎氏からの連絡を待った(宮崎氏も事実経過についてはおおむね報告書の通りであると述べていた)。しかし、報告書についての修正要求を出さないまま、宮崎氏は執行部への反論文書(タイトルなし)を作成し、11月16日、全理事に直接送付した。その内容は、@恣意と歪曲に満ち、A自身の責任にはほとんど言及せず、B事務局長人事の方便として執行部が会員管理システム問題を持ち出したと印象づける作為に満ちたものであった。
 確かに事務局長人事問題と会員管理システム問題は併存していた。しかし、すでに見た経緯からも明らかなように、執行部にはこの時点で宮崎氏を解雇する意思はなく、誠実に議論を重ね、会員管理システム問題と人事問題を結びつけないとの結論を確認している。むしろ宮崎弁明書にこそ、二つの問題を結びつけることによって、粛々と処理すべき事務局再建問題を内紛に発展させ、その混乱を利用して保身をはかろうとの底意がうかがえた。執行部としては到底容認できるものではなかったが、混乱を拡大させてはならないとの配慮から敢えて反論は差し控えた。しかし、恣意と歪曲に満ちた「宮崎弁明書」の登場によって、執行部と宮崎氏の信頼関係は一瞬にして崩壊し、ここに至って「宮崎問題」が急浮上した。

■3 4理事の行動と八木会長の変節(平成18年1月理事会まで)

 (13)11月18日、この問題を議し、執行部の処分に承認を得るための緊急臨時理事会が開催された。社会的常識から言えば、事務局長人事は執行部マターであり、理事会は執行部を不信任するのでない限り、執行部の方針を承認するのが普通である。しかし、招集された理事会では、宮崎弁明書が早速効果をもたらした。この理事会の場で、初めて公然とした、激しい執行部批判が展開された。内田理事は宮崎事務局長について「学問もあり、能力もあり、実績もある人を、なぜ、石をもて追うがごとくにするのか。そんなことをしたら、つくる会は他の保守系団体の支援を得られない」と発言した。この時点ですでに、宮崎氏の人事が他の団体のつくる会に対する支援と結びつけて論じられていたわけである。
 当日は会議の時間が1時間と制約されていたために、この場で結論は出ず、継続審議となった。勝岡理事も内田氏と同じ立場であり、欠席した新田、松浦両理事も意見書を提出した。欠席した高森理事も独自の立場から執行部に意見書を提出した。なお、注目すべきは、松浦理事の意見書の中で、宮崎事務局長をやめさせれば、宮崎氏とのつながりで会に多額の寄付をいただいている支援者が離れるとされていたことであり、さらに、この段階で早くも新田・松浦理事は、理事会における議決権の行使について内田理事に委任状を託していたことである。理事会ではそれまで多数決でことを決したことは皆無であり、執行部に反対する理事たちは、早くも妥協なき対決姿勢を固めていたのである。

 (14)執行部は、新たな事態に直面したが、これを基本的には事実認識の落差にもとづく見解の相違ととらえ、関係者への説明や説得を重ねることで理解が得られる問題であると認識していた。
 そこで、12月1日、この日予定していた理事会を延期し、執行部会を開催して一連の方針を決めた。その方針に基づいて、宮崎氏が進退について相談した相手方であり、教科書運動の強力な支援者でもあった日本政策研究センターの伊藤哲夫氏を、八木会長、遠藤・福田・藤岡副会長の4名で訪ねて事情を説明した。その結果、執行部と宮崎氏との信頼関係が崩壊した現状を踏まえ、コンピューター問題での宮崎氏の降格処分は敢えて行わず、宮崎氏は事務局長の身分のままで円満退職するとの妥協案について、伊藤氏の同意を得た(後に、伊藤氏は同意した事実を否定したとされる)。
 この同意に基づき、執行部(八木会長、遠藤・藤岡副会長出席)は12月7日、宮崎氏に対し、事務局長人事はあくまでも9月総会で決定した新たな運動方針にふさわしい人選をするという観点から考えており、宮崎氏はその構想からはずれたことを八木会長が説明し、「大人の解決」としての上記「円満退職案」を提示した。宮崎氏は、他の人に相談したいとして回答を保留し、12日までに返答することとなった。
 同じ12月7日、執行部は事務所におもむき、12月1日の執行部決定に基づき、事務局長不在の状態が長く続いたことをとりあえず解消するため、自宅が事務所に近い藤岡副会長を一時的に事務局長代行として事務所に出勤させる方針を事務局員に伝えた。藤岡副会長は、結果的には8日から1週間事務所に出勤した。

 (15)12月9日、宮崎氏は7日の執行部提案について八木会長に対して拒否回答。同日、藤岡副会長には次のように回答した。
 @12月7日、執行部から提案された、「事務局次長降格などの処分を受けずに、事務局長の身分のまま円満退職する」という、「大人の解決」にいったん心を動かされたが、3、4人の人と相談した結果、やはり執行部の提案を拒否することにした。
 Aこれは東京裁判と同じである。東京裁判を批判するはずのつくる会が、東京裁判と同じ事をしていてよいのか。
 B宮崎事務局長を辞めさせれば、各種支援団体が、つくる会の支援から一斉に手を引く。
 C伊藤哲夫氏は、12月1日に八木、遠藤、福田、藤岡の4人と面会した際、宮崎事務局長の「円満退職」案に同意した事実はないと言っている。
 D宮崎事務局長を辞めさせるならば、藤岡副会長も辞めさせるべきだ。
 E自分の処遇が理事会で決定されれば、それには従う。
なお、この時期、宮崎事務局長は連日のように事務局メンバーと会食するなどして、事務局員を紛争に巻き込んでいった。

 (16)12月10日、藤岡副会長は事態収拾のため、宮崎氏を「会長補佐」に任命し、事務局のラインとは切り離して会長委嘱の任務を課すという案を八木会長に提言、八木会長は「それがいい」と賛意を示した。
 しかし、この間、11月18日の臨時理事会から20日以上経つにもかかわらず、八木会長は理事に対し事態がその後どうなったかという説明を一切行わず、早期に理事会を招集すべきではないかという副会長その他の理事の助言や要望を無視して、理事会はおろか執行部会すら招集する構えを見せなかった。このように事態を放置した上で、事務局員の不満、理事の疑心暗鬼、副会長の焦燥などが高まったのを見計らうかのように、12月11日、八木会長は他の執行部メンバーに、「処分はすべて凍結、宮崎氏をとりあえず事務局長に戻し、翌年3月までに鈴木事務局長体制に移行する。以上の線で会長に一任してほしい」旨を提案した。各副会長はやむなくこの提案に同意した。
 12月12日、6理事(内田・勝岡・高池・高森・新田・松浦)連名の「理事会招集の要望」が事務所に送られた。これは、理事会が一向に招集されず、理事に対する事情説明もなされていない状況のもとでは、当然の要求と言えた。
 次いで、同日、内田・勝岡・新田・松浦の4理事連名の「事務局長人事をめぐる執行部対応への抗議及び経緯説明等の善処を求める声明」が同じく事務所に送られた。その内容は、@11月12日の執行部告知は、被雇用者に対する違法な懲戒処分を労働法の原則に反して行った不当な処置である、Aコンピューター問題は「事務局長更迭論」の道具として取り上げられた、B「これらの言挙げは、まるで南京大虐殺を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させ」る、というものであった。いかに意見が異なるとはいえ、真摯に事態の打開のために苦闘している執行部のメンバーに対し、「南京大虐殺」まで引き合いに出して糾弾するなど、常軌を逸した行動というほかなかった。こうして、会の混乱はますます拡大していった。
 藤岡副会長は、12月13日夜、新田理事に電話して1時間半にわたってコンピューター問題などの事情を説明した。行き違いの原因は情報ギャップに基づくもので、正しく事実が知られるならば、相互不信は解消すると考えたからである。しかし、後に分かったことだが、この会話を新田理事は録音機を仕掛けて記録していた。宮崎氏を擁護するグループは、問題が顕在化した最初から藤岡氏らを排除するための一貫した行動を取っていた。

 (17)12月15日、八木会長は「理事及び関係各位」に宛てて「会長声明」を発出した。その中で、「会長として自ら収拾に乗り出す決意」をしたとして、翌年3月を目途に新たな執行部・事務局体制を構築する、15日付けをもって宮崎氏を事務局長職に復帰させる、などの方針がうたわれた。
 しかし、この中に、「率直に言えば、私の意志とは別にことが始まり、既成事実が積み上げられていく中で、それを動かしがたい事実と捉えてしまい、限られた選択肢の中で、当会の宥和を図ろうとしたことが、かえって問題を長期化・深刻化させてしまったように思います」と書かれていた。この文言に他の執行部メンバーは愕然とした。理事の中でも、宮崎事務局長に辞めてもらうことにしたという八木会長の意向を聞かされていた一人は、会長あての辞表を用意した。
 特に、「私の意志とは別にことが始まり」との表現は、作為に満ちたものであった。なぜなら、この表現は執行部のメンバーで事態の経過を知っている者にとっては、西尾名誉会長が八木会長の同意を得ないままに事務局長候補として特定の人物に声をかけてしまった事実を指すように読めるが、他方、事情を知らない執行部外の人間には、あたかも八木会長は事務局長人事問題全般について関与しておらず、従って何の責任もないかのような言い回しになっているからである。混乱の責任を他の執行部メンバーに転嫁する身勝手な論理といわれてもいたし方あるまい。自分だけを「よい子」にして、会長に協力してきた副会長らを悪者に仕立て上げるやり方に、執行部メンバーは驚き、呆れ、怒りを感じた。
 19日に、再び4理事の「理事会議題について」という声明が会長声明に呼応するかのように出されたが、その中では、「この会長の言葉は、私どもがかねてよりこの問題に対して感じていた疑念と一致しており、かつ当会の運営上極めて重要な要素を含んでいる」と述べた。結果的に八木会長声明と4理事声明は呼応している。

 (18)12月15日、八木会長をめぐるもう一つの問題が持ち上がった。翌日16日から19日まで、八木会長は4人の事務局員とともに中国に旅行するため、15日夜、成田に前泊した。この旅行そのものは数日前から他の執行部メンバーも知るところとなっていたが、15日の深夜、八木会長らの一行に、処分保留中の宮崎事務局長も同道していることが判明した。
 これは一理事の表現を借りれば、「裁判官が被疑者と一緒に旅行する」ようなものであり、八木会長に協力して人事問題に取り組んできた他の執行部メンバーに対する背信行為といってよかった。こうして、会長声明と、中国旅行への宮崎事務局長同道という2つの問題をめぐって、「八木会長問題」が浮上した。

(19)12月25日、執行部(八木・遠藤・福田・藤岡)に西尾名誉会長を加えたメンバーで会合をもった。八木氏は懐に辞表を持参していた。冒頭、西尾氏は会長人事での前述の先走りについて謝罪し、八木氏は今後その責任は問わないとした。次いで、八木氏の会長としての行動が次の2つの重大な問題点を含んでいることが指摘された。
 第一は、八木会長が、この間、執行部のすべての決定に参加してきたにもかかわらず、「私の意志とは別にことが始まり」と書いて、宮崎事務局長の人事に関与していないかのような風を装い、責任を他に転嫁したことである。これについて、八木氏は「(他の執行部メンバーと)一緒にやってきた」と言って、事実を認める発言をした。そこで、12月15日の会長声明を訂正することになり、その案文を八木氏が作って執行部メンバーに提示することで合意した。
 第二は、会長の中国旅行に、執行部として処分を決めた宮崎事務局長を同行させ、その事実を執行部の他のメンバーに隠していたことである。これについては、八木氏は「言いづらかった」と弁解した。しかし、この時点では、八木会長の一行が中国社会科学院と歴史認識をめぐる会合をもったことは知らされていなかった。
会長が理事会を開催せず、執行部会も招集せず、理事への説明もないまま事態を放置し、混乱を拡大してから、会長が乗り出すとして一任を取り付けるというやり方についても厳しい批判が出された。しかし、会長の辞任などは求めず、会の運営を正常化する努力を払うことをお互いに確認して会合は終わった。

 (20)年が明けて平成18年1月12日、執行部会(八木・遠藤・福田・藤岡+西尾)が開催され、出席者は「会員管理システム問題にかかわる宮崎弁明書への反論」を4時間かけて細かい字句にいたるまで検討し、同日付け文書として確定した。執行部の反論は、次のように宮崎事務局長の問題点を改めて整理した上で、個々の論点についても反論を加えた。
 @相見積をとらず、安易に縁故に頼って特定の会社に発注した。A種子島担当理事は、a)問題のある旧システムをベースにせず、全く新しいシステムを構築すること、b)ユーザー側の要望を一本化し宮崎事務局長が折衝の窓口となること、という2つの重要・適切な指示を行ったが、どちらの指示も守らなかった。B契約にあたり、すべてを口約束ですませ、契約書や見積書、仕様書などを作成しなかった。Cソフトが完成した段階で、つくる会側の要求を統合・集約しないまま、事務所でそれまで使っていた「ファイル・メーカー」というソフトをベースに作業のやり直しを求め、同ソフトを扱ったことがない業者にずるずると作業を続けさせた結果、総額1728万円もの制作費を請求される結果となった。D相手側の会社は、「会員管理システム保守契約書」と称する文書は、実際はソフトの制作費の分割払いであるとの立場をとっており、そのことは宮崎事務局長との間で口頭で約束したとしている。この件を曖昧なままに放置したことが、現在の事態の直接の原因をなしている。E1年前から発生した、保守サービスを十分に受けられない事態についても、解決に取り組まないまま放置した。
この文書は、八木会長以下5人の正副会長の連名の文書として理事会に提出されることとなった。

 (21)1月16日、2ヶ月ぶりに理事会が開催された。執行部批判の声明文を出した4理事のグループは、宮崎事務局長と連携して、藤岡副会長にターゲットをしぼった大量の批判文書を出すなど、周到な準備の上で臨んだ。善意の学者理事からなる理事会は、このような組織的な分派活動の対象になると、ひとたまりもなかった。八木会長は自ら署名した宮崎弁明書への執行部の反論文書を読み上げたが、その本心はすでに反執行部グループに同調する立場に立ってしまっていたから、新田理事らに追及されると、矛盾を露呈し、しどろもどろになる場面があった。八木氏は、会長としての指導力不足をさらけだした。
 宮崎事務局長の責任問題については、弁護士である内田理事が法律論を振りかざし、理事会の発言をリードした。執行部側は処分案の決定の場に同席していた弁護士の高池理事が欠席した影響もあり、法律の専門的な話を持ち出す内田理事の発言によって、議論は一方的なものとなった。反執行部グループは新田理事を中心に絶え間なく発言し、宮崎氏の責任は全くないかのような議論をまくしたてた。つくる会の会則に基づき、西尾名誉会長と藤岡副会長を会から除名することを暗示する発言も出された。西尾名誉会長はいかなる資格で理事会の場に出席しているのか、という詰問と受け取られるような新田理事の発言もあり、会の創業者である西尾氏が名誉会長の称号を返上し、会を離れると声明する引き金となった。
 八木会長は、会議のまとめとして、@コンピューター問題については、宮崎氏の処分案を執行部において再検討し、この問題に関する理事会への処分案とあわせて原案を次回理事会に提出すること、A採択戦の総括委員会を設置し、委員の人選は会長に一任すること、を結論として提示し、了承された。

■4 幹部役員の大量辞任から八木執行部の解任へ(2月理事会まで)

(22)1月17日午前3時ころ、西尾名誉会長は、名誉会長の称号を返上し、会を離れることをネット上で表明した。翌日の朝刊には、「若い人と話が合わなくなった。むなしい」という西尾氏の談話が掲載された。
これとは別に、同日、遠藤、工藤、福田の3副会長が相次いで辞任した。示し合わせた行動ではなく、それぞれ個別に判断した結果であったが、共通の理由は、1月理事会で露呈した八木会長の動揺や指導力不足に対する強い不満であった。
 同日午後、八木会長はメールで採択戦の総括委員会の人選を発表した。5人の委員は、八木・遠藤・内田・高森・松浦という顔ぶれで、採択本部長として働いた藤岡副会長の名前はなかった。採択戦の総括はすでに前年9月に基本的には終わっていたが、採択戦の総括が必要であり、その中心にいた宮崎事務局長を総括が終わるまで辞めさせるなという主張が、宮崎氏の支持グループから執拗に繰り返されていた。しかし、それは単なる口実であり、採択の総括の必要を主張した理事たちは一度も自発的に総括レポートを提出したことがなかった。八木会長による上記の5人の委員の人事も、採択活動の実績とは無関係に人選が行われ、藤岡副会長をはずして事実上の会の執行部をこのメンバーで構成しようとする、八木会長の意図を反映したものであることは明らかだった。西尾氏が会から去った今、余勢を駆って一挙に藤岡氏を排除しようと動いたのであろう。
 同日夜帰宅後、この事実に気づいた藤岡副会長は辞任を決意し、ネット上で辞意を表明すべく作業にとりかかった。そこへ鈴木尚之氏から電話があり、八木会長と同席しているが、これから同氏と会ってほしいと求められた。会合の席で、藤岡氏は、この趨勢では全副会長が辞任するであろうこと、良識派理事も全員が次々と辞め、残るのは八木氏と声明を出した「4人組」の理事だけになるであろうと述べた。すると八木氏は、「それなら自分も辞める」と言い出し、「鈴木氏に免じて副会長に留まってほしい」と懇請した。こうして、鈴木氏の仲介で藤岡副会長は辞任を思い留まったが、藤岡氏はその条件として、総括委員会の人選案を白紙に戻すこと、事務局に鈴木氏が入ることなどを示し、八木氏はそれを受け入れた。こうして、八木会長・藤岡副会長という変則体制で会の正常化を目指すことになった。

 (23)遠藤・工藤・福田の3副会長の辞任は、大きな声で繰り出される圧力に動揺し右往左往する八木会長に対する「しっかりせよ」との叱咤でもあった。ところが八木氏はそれを正面から受け止めることはしなかった。
 1月末に発行された会報『史』1月号には、「西尾幹二名誉会長のご退任に際して」と題する八木秀次会長の声明と、「西尾名誉会長のご退任の報に接し」という小見出しのついた宮崎事務局長の文章が掲載されたが、八木執行部の事実上の崩壊を意味する3人の副会長の辞任は一切報じられず、封印されてしまった。そればかりか、同号に巻頭言を書いた工藤氏は、「副会長」の肩書きを取るようにゲラの段階で事務局に指示したにもかかわらず、無視された。
 名誉会長の退任とともに、3副会長の辞任も、会の運営にとって重い意味を持つ。そこには八木氏に対するメッセージが込められていた。しかし、八木氏と宮崎氏は、西尾名誉会長の退任については大々的に告知する一方で、副会長退任は会長預かりにして事実上黙殺しようとした。その一方で八木氏はこの時期、「(3副会長は)西尾氏の院政に反発して辞めた」との虚偽情報を関係者に吹聴した。西尾名誉会長がすべての混乱の原因であるとの世論誘導を始めたのである。
 言うまでもなく、混乱の原因は人事問題を内紛に発展させることにより保身をはかろうとする宮崎事務局長その人であった。同氏をすみやかに退任させることは、会の再建にとって不可欠となっており、当時八木会長も折節にそのことを表明していた。ところが、『史』1月号で宮崎氏は、「(西尾)先生に、会への深いご愛念を振りきって先生ならではの大事な著作活動に専念していただくため、後顧の憂いをなくすよう微力を尽くすことこそが、先生への恩返しと肝に定めた次第です」と、事実上の続投宣言を行った。
 いよいよ八木氏は宮崎氏に取り込まれたのではないか? 退任した3氏の疑念と不満は再び一気に高まった。一時は藤岡副会長も含め4副会長連名で抗議声明を出す寸前まで事態は動いたが、遠藤氏が八木会長に対して、@欠陥だらけの会則をタテに、副会長退任を1ヶ月以上もタナ晒しにするのは非礼、A「3副会長退任」という事態を正面から受け止めることによって問題を抜本的に解決するという方向に発想を切り替えてほしいと説得し、八木氏もこれを了承、副会長退任がFAX通信で告知される運びとなった。このとき八木会長は、遠藤氏や藤岡副会長らに「宮崎解任の線で動いているから見守ってほしい」と繰り返し述べていた。なお、八木氏は最近の手記で「(3副会長退任は)八木降ろしに連動している」と述べているが、これが見当外れであることは、以上の経緯からも明らかであろう。

 (24)つくる会は八木会長・藤岡副会長の変則執行部体制で会の立て直しをはかった。理事の間には、宮崎事務局長が、自らの保身のために理事会を巻き込み、事務局を巻き込み、さらには外部団体まで巻き込んだ会の内紛に発展させ、会を存亡の危機に陥れた責任を追及すべきとの声が満ちていた。このまま推移すれば、2月末に予定されている理事会で、宮崎事務局長の解雇は免れない状況だった。
 藤岡副会長は、宮崎事務局長の自発的辞任が同氏自身を傷つけない形での問題解決につながる道であり、それ以外に打開の方法はないことを力説して八木会長を説得した。八木会長も事態を理解しているような言動を示し、何度かにわたって、自分の責任で宮崎氏を辞めさせるとの言質を与えた。遠藤副会長にも同様のメッセージを送っている。しかし、実際にはその実行をずるずると引き延ばし、ついに2月理事会にいたるまでその責任を果たすことはなかった。この間、執行部機能はほとんど停止したままだった。

 (25)西尾名誉会長の辞任に加えて、4副会長の辞任または辞意表明の事実がFAX通信で報じられると、評議員や支部長の間で、理事会で一体何が起こっているのか、その実情を調査し、問題を会員に明らかにすべきだとの声が高まった。関東地域の評議員・支部長有志数名は、チームをつくって調査に乗り出し、西尾名誉会長はじめ会長・副会長全員からの事情聴取を試みた。八木会長と宮崎事務局長は、最後まで調査に協力しなかった。その調査の内容の一部は、メーリングリストや3月の評議会などで報告された。

 (26)2月27日、理事会が開催された。まず、議長に藤岡副会長が立候補し、次いで八木会長も立候補して多数決で決めることとなり、藤岡副会長が議長に就任した。議題の冒頭で新田理事は、藤岡副会長の除名動議を提出した。動議を提出した以上、多数決で可決する目算があったと考えられるが、その動議は否決された。このようにして、つくる会史上初めて、ほとんどの議事が多数決で決せられることとなった。
 理事会は、宮崎事務局長について、事務局長としての資質と、自らの保身のため会を混乱させた責任を問い、高池理事からの動議に基づき、退職を決定した。八木会長については、この間の会運営について指導力を欠き、事態を混乱させた責任を問い、解任した。また、八木会長は、前年12月、事務局員数名と中国を訪問し、中国社会科学院で知識人と討論した件の軽率さが批判された。藤岡副会長についても、執行部の一員としての責任が問われ、解任動議が出されて可決した。
 ここまでの決定により、前年9月の総会で承認された執行部は全員姿を消す形となった。そこで、会を存続させるため、急遽、種子島理事・元副会長を会長に選任し、会の再建に当たることとなった。理事会はその他の役員を選任することなく、ここで時間切れ閉会となった。

■5 種子島体制とその変質(3月理事会まで)

 (27)2月28日の産経新聞記事は、「新会長に種子島氏」と報じたが、その中に「理事会では八木会長が昨年12月に理事会の了承を得ずに中国を訪問し、知識人と歴史認識について論争したことを問題視する意見が多数を占め、辞任を迫られたという」とあった。中国旅行はつくる会会長として不注意な行動で、「飛んで火に入る夏の虫」になったらどうするのだとの批判は出たが、それが解任の主要な理由だったわけではなく、会長としての指導力を欠く事例の一つとして挙げられたものだった。しかるに、八木氏も、産経新聞の報道と軌を一にして、中国旅行を理由に解任されたのは不当だ、とふれまわった。
 2月28日、宮崎事務局長は「任期最後の1日」を悪用して、会に対する重大な背信行為を行った。宮崎氏は、種子島会長が発表するようにと事務局に手渡した原稿とは別の原稿に差換え、「 つくる会FAX通信 第165号」(2月28日付)として発信した。その内容は、八木会長の解任動議に賛成6,反対5、棄権3であったとして、決定が僅差で正統性がないかのように印象づけた上で、それぞれの投票者の実名まで明記するという異常なものだった。また、「委任状」がどう扱われたかということまで逐一記載し、八木会長の反論を5行にわたって載せるなど、かなり偏向した宣伝物といってよい内容だった。
 3月1日、産経新聞は、3段ヌキで<八木会長は解任/「訪中」「人事」めぐり内紛>という見出しを掲げた記事を掲載した。その内容は宮崎事務局長が送ったFAX通信の内容と「うり二つ」で、産経新聞「教科書問題取材班」の渡辺浩記者は、宮崎事務局長と共謀し、FAX通信の作成段階にも関与し、宮崎氏にその通信を流すことを強く迫っていた。本文中の小見出しも、「1票差で可決」、「西尾氏院政?」、「空洞化の恐れ」などとし、つくる会に対する誹謗記事といってよいものだった。読者の判断を、解任された八木氏への同情へと誘導しようとする記者の意図は明白だった。
 会のニセFAX通信と産経新聞の記事が連動して、偏向した情報を会員や読者に伝えたことは、問題の解決を長期化させ、困難にする決定的な要因となった。

 (28)種子島会長は、ニセFAX事件によって、一人で問題を処理することに限界を感じるようになり、3月1日、藤岡・福地両理事を「会長補佐」に任命し会務全般の相談に応じる役目を与えた。会長補佐という役職は会則にもないもので、理事会が執行部を選ぶ余裕がなかったことから、やむをえずとられた緊急の対応策だった。種子島会長は、先に送信された「第165号」の「全文取消」を告知した正式の「FAX通信 第165号」を3月1日付で発信した。
 会の再建の方針としては、まず、全国の会員に今回混乱の事情を包み隠さず説明し理解を得て会の正常化への基礎を固め、次に執行部の再建に取り組もうということになった。この方針に基づきブロック会議を開くこととし、3月6日・関東、8日・関西、9日・九州の順でブロック会議を招集し、会長・会長補佐が手分けして出席した。その上で、3月11、12の両日、東京で評議会・全国支部長会議(合同会議)を開催することになった。

(29)ブロック会議から評議会に至る過程で、藤岡会長補佐は八木元会長との宥和路線を必死で模索した。会の亀裂がこのまま固定化し、八木氏のグループが「第2つくる会」のような分裂組織を立ち上げる事態にまで発展すれば、日本の教科書改善運動は分断され、決定的に弱体化し、それによって中国共産党の思うつぼになる。その危険は何としても回避しなければならないと考えた。つくる会の活動家を結んだメーリング・リストでは、八木会長の批判、特に中国訪問への指弾がなされていたが、3月7日、藤岡氏は「私の立場」と題して投稿し、八木氏が保守言論界にとって大事な人材であること、氏の名誉回復の措置が取られるべきこと、会の役職に復帰することを期待すること、などを表明して、八木氏との宥和を模索した。
 3月10日には、藤岡氏は八木氏の自宅を訪問し、2月下旬に八木氏宅に送ったファックスによる抗議文(藤岡氏をはずして八木会長と宮崎事務局長だけで執行部会を強行開催するという動きに対し抗議したもの)の余白に「ふざけるな!」と手書きしたことが夫人を恐れさせたとして繰り返し八木氏から非難されていた問題について、八木夫人に直接謝罪した。これも八木氏が会に復帰することへの障害を取り除こうとするねがいに基づくものだった。その後2往復にわたって八木−藤岡間でのメールのやりとりがあり、両者の関係は修復に向かうかのように見えた。
しかし、まさにこの時期、藤岡氏をターゲットとした一連の謀略が仕組まれ、3月8日には西尾氏の自宅に「藤岡平成13年共産党離党」という怪文書が送られていたのである。

(30)八木氏及び宮崎氏、さらにそのグループは、解任された直後から、上記の産経の偏向記事とニセFAX通信を皮切りに、以下のような一連の謀略的な動きをしていた。
@平成8年に「従軍慰安婦問題」を契機に教科書改善運動を提起した藤岡理事が、平成13年に日本共産党を離党した(すなわち最初の採択戦をたたかったこの年まで共産党に在籍した党員だった)という虚偽の情報を盛り込んだ怪文書を、差出人不明のファックスとして、3月8日に西尾氏の自宅へ送り、ほぼ同じ時期に、種子島会長、田久保理事、関西仏教懇話会の叡南会長の自宅等に送った。
 Aつくる会ヘの大口の財政支援者である、「あなたと健康社」「株式会社フローラ」を訪ね、寄付金返還要求の文書を会あてに出すように工作した。前者から3月9日付け、後者からは3月11日付けに文書が送られ、種子島会長と福地・藤岡両補佐の自宅にも、つくる会の事務所から転送された。
 B伊藤隆理事を訪ねて一方的な説明をし、伊藤氏は理事の辞表を提出した。このことは、3月11日、評議会初日にぶつけて産経新聞で報道された。伊藤氏は、藤岡氏が中心になる会では理事を続けることができないとの趣旨の辞任声明を書き、その声明全文は手回しよく評議会で読み上げられた。
 C宮崎氏と固い結びつきをもった人物が幹部となっている特定の地方支部に工作して、本部への「八木復帰コール」、「2月理事会以前への原状復帰要望」等々を内容としたファックスや文書を本部に送らせた。
 C産経新聞の渡辺記者は、北海道の3支部が会の正常化を願う立場から出した声明を、本部に「離反」したと歪曲して、大きな見出しをつけて報道した。
 Dつくる会東京支部の掲示板に、八木氏を支持し、西尾氏や藤岡氏などつくる会の幹部を糾弾する一連の書き込みが行われた。今日では、そのほとんどが産経新聞の渡辺記者によるものであることが判明している。
 Eこうした動きの集約として、「第2つくる会」の結成に動き初め、事務所探しなどに着手していた。

 (31)3月11,12の両日、東京で評議会・全国支部長会議(合同会議)が開催された。会議では問題の経過が詳細に報告されたが、参加者からは、理事会に対する批判・不信の言葉が出されるとともに、理事会の構成を学者中心ではなく教育現場や採択現場に通じた理事を入れるべきことなど、多くの有意義で積極的な提言が行われた。その要旨は、発言者ごとに整理して、FAX通信第168号(3月13日)で伝えた。新田理事は、極く短時間しか参加しなかったが、藤岡理事を主なターゲットにした膨大な批判文書を参加者に配布した。
 会議の参加者は、「この会議(3月12日)以後は昨年9月以降のもめ事の一切を不問に付し、会の再建のために全理事が和解して努力すること」を理事会に強く要請した。双方に対し相手への攻撃をやめること、理事は仲良くしてほしい、会の理念と出発の原点に立ち返ろう、などの切々とした訴えが参加者から相次いだ。
最後に種子島会長は「3月末に理事会の開催を予定している。かなり新しい体制を提起するつもりなので、『えっ』とビックリされる方も『なるほど』と思われる方も出てくるような新しい体制を作っていくことにしたい」とまとめた。しかし、その内容は、まもなく明らかになるように、実際に驚くべきものだった。

 (32)3月14日、会長の職務の引き継ぎを理由にして、種子島会長は八木氏と面会した。その席で、会長は八木氏に、3月の理事会で直ちに会長に復帰することを提案した。これが評議会で種子島会長が述べた「かなり新しい体制」の中身であった。しかし、これは、評議会・全国支部長会議が強く求めた理事間の宥和の方向に反する一方的な方針だった。種子島会長は、2月理事会の直後には、種子島会長のもとで八木・藤岡の両氏を副会長として任用することで紛争を収拾する構想を語っていたから、藤岡氏はそういう方向に落ち着くものという前提で八木氏の役員(副会長)復帰のために行動していた。種子島氏は、14日の前にも後にも、自らの「八木会長」案を二人の補佐に一切洩らさなかった。2月の理事会では八木会長解任に一票を投じた種子島氏は、この時点で八木氏サイドに転身したといえる。

 (33)八木・宮崎グループは、3月末の理事会をめざして、多数派工作に動いた。ターゲットは、福地理事だった。伊藤隆理事を説得することに成功した八木氏らは、伊藤氏の弟子筋に当たる福地氏も味方に引き込めると考えたようである。3月17日、宮崎・内田両氏が福地氏に面会し、次いで、3月20日、八木・宮崎氏が福地氏に面会した。その席で藤岡理事の党籍問題が話題になると、八木氏は、藤岡氏が平成13年に離党したという情報を公安調査庁の知り合いの関係者から得ていると勝ち誇ったように言い放った。本当に確かな話なのかと念を押すと、八木氏は、信頼できる確実な情報であると再び断言し、宮崎氏は盛んに相づちを打った。

 (34)福地理事は種子島会長に、疑惑の対象にされた藤岡理事からその真相を直接問い質すべしと進言、鈴木事務局員陪席のもと、3月25日、聴聞会を開いた。藤岡氏の詳しい事情説明で、離党は平成3年であると確認できた。藤岡氏の平成8年以降の歴史教科書正常化運動とその言論活動は日本共産党の政治方針とは百八十度違うことは明らかであるが、仮に党籍継続のままならば、除名処分に該当するのは明白だった。

 (35)3月理事会が近づいていた。高池・福地両理事は種子島会長に、どのような形で新執行部をつくるのかを問うた。種子島会長は、「人事一任」を2月理事会で取り付けていると主張し、自身は体調も余りよくないので、一刻も早く八木氏に会長の地位を返したいと言い出した。実際は2月理事会が種子島会長に「人事一任」の権限を与えた事実はなかった。種子島氏による八木会長案の根拠は、「八木氏は全国の会員の人気が高い」、「八木氏はフジサンケイグループの信任があつい」の二つであった。ただし、八木氏から自分は会長かさもなくばヒラの理事のいずれかを所望するとの連絡があり、その数日後には一転して副会長になりたいとの申し出があったという。そこで、3月理事会で、まず、八木氏一人を副会長に据え、7月初旬に予定される総会までに、八木氏に会長を譲るというのが種子島構想であった。「八木さんに会長に戻れといった手前、彼の意向を尊重したい」と種子島会長は言い張った。コロコロと身勝手に要求を変える八木氏に対し、「八木は一体、自分を何様と思っているのだ」と言ったのは福地理事であった。高池理事は、副会長複数制の妥当性を力説したが、種子島氏はこれを無視した。

(36)3月28日、理事会が開催された。開会劈頭に八木氏は、「反省と謝罪の弁」を述べた。藤岡氏も述べた。八木氏の行動は福地理事からの事前の強い要望を受けたものであった。それは、昨年9月から半年以上にわたり打ち続いた一連の理事会の混乱に終止符を打つための儀式でもあった。そして、3月12日の評議会の要望に基づく会長の運営方針「理事会一丸の取組」「既往のことはなんであれ問わない」を確認し、ブロック説明会、担当理事制、隔週の執行部・担当理事合同会議を重ねながら会の正常化を目指す、という趣旨の具体案で合意した。
 人事について、種子島会長は八木理事を副会長に任命し、7月総会までに同氏を会長にすることを決定したいと提案した。しかし、議論の結果、3ヶ月も先の人事を今決定する必要はなく、それは「含み」として理事各位の心中に留め置き、一切公表しないとの合意が成立した。種子島会長の提案は一方の側に偏したもので、評議会で確認された精神に反するものであったが、良識派理事は会の再建のために最大限の譲歩を行い、提案を受け入れた。はなはだ一方的な結論ではあったが、ともかく和解が成立した。理事会では吉永理事の提案で、八木氏が改めて理事会の和解を確認する最後の挨拶をし、拍手をもって理事会を終了した。従って、このまま進めば7月に八木会長が実現するのは確実だった。

■6 謀略の発覚と八木氏ら6理事の辞任(4月理事会まで)

(37)ところが、評議会−理事会で確認された和解の精神に反する裏切り行為は、理事会の直後から始まっていた。八木・新田両氏は、理事会後に事務局が設定した和解の確認の場となるはずの懇親会には来ずに、別の会合に出席した。事務局に説得されて懇親会にやって来たのは1時間半も遅れてからだった。
 理事会終了後、つくる会は産経新聞渡辺記者の電話取材を受け、まず事務局の鈴木氏が理事会決定事項を箇条書きで読み上げ、次いで種子島会長が、つくる会は「第二ステージ」に入ったとの短いコメントを伝えた。ところが、産経ウエブは、理事会終了の40分後に、理事会の決定事項に背く記事を流した。翌朝の産経新聞は、「八木氏、会長復帰へ」と大見出しを打ち、外部に公表しないと確認した人事案について、「7月の総会までに会長に復帰すると見られる」と書いた。それだけではない。理事会では全く議論されなかったのに「宮崎氏の事務局復帰も検討」と報じられ、話題にはなったが「確認」などされていないのに、「西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された」と報道された。八木氏か八木氏側の理事の誰かが、産経新聞の渡辺記者に誤情報を流して書かせたものであることは明白だった。
つくる会のFAX通信第170号(3月29日)は、種子島会長、八木副会長の同意のもと、「憶測を多く含ん」だ記事について産経新聞社に抗議したことを伝え、特に「西尾元会長の影響力排除を確認」、「宮崎正治前事務局長事務局復帰も検討」は明らかに理事会の協議・決定内容ではない、と告知した。

(38)さらに、理事会の直後から、西尾氏の自宅には、差出人不明の怪文書が矢継ぎ早にファックスで送られた。3月8日に送られた前述の「藤岡平成13年離党」文書を含めて計4種類の怪文書が届いたが、その時期を日付順に整理すると次の通りである。
 ・3月 8日 「藤岡平成13年離党」の怪文書(A)
 ・3月30日 藤岡理事の妻の父が国政選挙で共産党候補者の支持を表明したことを示
          す平成5年7月3日付けの「赤旗」の記事(B)
・3月31日 西尾・藤岡往復私信(C)
        脅迫文書:「福地はあなたにニセ情報を流しています」から始まり、一
          連の事態を関連づけて見せた全文10行からなる文書(D)
 ・4月1日  西尾・藤岡往復私信(2回目)(C)
 この中で、特に3月31日に送られたCとDは、西尾氏に対する深刻な精神的打撃となった。西尾氏はその後、これら一連の経過を自身のブログで暴露することになる。

 (39)4月3日、産経新聞の渡辺浩記者は藤岡氏に面会を求め、八木氏から公安調査庁の情報であるとして「藤岡の共産党離党は平成13年だった(藤岡はそれまでつくる会の副会長でありながら同時に共産党員であった)」という謀略文書を見せられて、すっかり信用していたが、ガセネタであることがわかったという告白をし、謝罪した。渡辺記者の一連の偏向記事は、そうした誤情報によってマインド・コントロールされた状態の中で書かれたことになる。渡辺氏は「もう謀略のような汚いことはさせませんから」と繰り返した。6日に再度藤岡氏と会った際に、渡辺氏は謀略をやめるよう話した相手を「八木、宮崎、新田です」と特定した。渡辺氏はこの時期、ほかの多数のつくる会関係者に謝罪して回った。
渡辺記者は、4日、事務局の鈴木氏にも、「謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略はやめようと言ったので、もう謀略はありませんから」と述べた。鈴木氏がこのことを八木氏に伝えると、八木氏は「謀略文書をつくったのは産経の渡辺君のくせに・・・・・・。彼は1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていた」とつぶやいたという。

 (40)八木氏らの一連の行動は、良識派理事たちの善意を踏みにじり、理事会の和解の方針に反旗を翻す重大な背信行為であり、渡辺氏の告白は全く新しい事態の出現であった。こうした事情変更により、この疑惑を解明することなしに会の再建はあり得ないと考えた福地理事は、4月7日、種子島会長に八木副会長に対する事情聴取の開催を求めた。しかし、種子島会長はこれを拒否した。
 4月12日、西尾氏宅にファックスで送りつけられた怪文書の一つである「西尾・藤岡往復私信」が、八木氏の手元に渡ったものと同一のものであることが判明した。そこで、藤岡氏は八木氏に面会し、八木氏の悪事はすでに露見し追及は避けられないこと、八木氏の言論人としての傷を深くしないためには、謀略に加わった他のメンバーとともに早々に自ら進退を明らかにする以外にないことを忠告した。八木氏は、自らファックスを送信するなどの実行行為は否認したものの、自分を支持する人たちがやったこととして、それに伴う自身の結果責任は認めた。
 同日、福地・藤岡両氏は種子島会長に面会し、八木氏が謀略に関与し、偽情報を公安調査庁の確かな情報であるとして藤岡氏を貶める道具にしていたことなどが判明したことを説明し、八木氏の事情聴取を開催することを改めて求めた。藤岡氏は会の名誉を守り、自身の潔白を証明するため、予定されていた8つのブロック会議に出席し、全国各地の会員に事情を直接説明すると発言した。すると、種子島会長は、ブロック会議をすべてキャンセルすると直ちに決断した。そして、結論として、これから八木氏と二人で産経新聞の社長に挨拶に行くので、そのあと八木氏に事実関係を確かめ、@八木氏が謀略に関与した事実を認めるなら副会長を解任し、自分も任命した責任を取って会長を辞任する、A八木氏が否認すれば八木氏に対する事情聴取のための聴聞会を開く、と明言した。

 (41)翌4月13日、この問題を協議するため、種子島会長、八木副会長、福地・藤岡理事の4人に加え事務局の鈴木氏が陪席した会合がもたれた。その席に種子島会長は予め用意した文書を出した。それは全理事にあてたもので、「私と八木秀次さんは、揃って、今日付けで、会長、副会長及び理事を辞任させて戴きます」という内容だった。これは、前日想定したうち、@の「八木氏が謀略に関与した事実を認め」たことになるはずである。しかるに、その会長声明なるものは、八木氏の行動を問題にしたり、会長として八木氏を副会長に任命した不見識を謝罪したりする文言は一つもなく、かえって疑惑の解明を求める福地理事らの行動を非難し、責任を転嫁する内容であった。
 その後の話し合いで、会長を直ちに辞任すると会が混乱するという点を考慮して、種子島会長は30日の理事会まで会長に留まることに同意した。種子島会長は、それは「ぎりぎりの譲歩である」と強調し、30日には理事会の冒頭で辞意表明してそのまま退席すると発言した。

 (42)4月30日、理事会が開催された。議題審議の冒頭、種子島会長、八木副会長が辞意を表明した。両氏の辞任理由の説明は、自らの責任には一切ふれず、逆に藤岡理事らに責任を転嫁する内容だった。福地・藤岡理事は連名で「会の混乱の原因と責任に関する見解」という文書をもとに、謀略の疑惑の事実を説明し、正副会長の議論に反論した。議論は2時間半にわたって続いた。八木副会長も文書を用意して応答し、部分的には質疑に応じる場面もあった。発言の中で八木氏は、八木氏を支持する人たちが謀略をしていたこと、産経新聞の渡辺記者が謀略文書を2通つくって八木氏に送ってきたこと、などを認めた。
 田久保理事は、藤岡理事がファックスに書きこんだ一つの言葉について八木夫人に謝罪したことを引き合いに出し、八木氏が公安情報であるとしてデマ情報を理事などに流布したことは極めて重大であり、八木氏は藤岡氏に謝罪すべきであると発言した。
 藤岡理事は、八木・新田両理事の行為は「この会の活動を混乱させ、あるいは会員としての品位を欠く行為をなし」たものであり、会則20条に定められた除名に相当するとしながらも、八木・新田両氏が「理事会と会員に対し、事実を認め、心から謝罪するなら、すべてを水に流して、大義のために、会と会員と国民のために、手を結びたいと思う。八木、新田両氏らの再考を求めたい」と訴えた。
 しかし、八木氏は謝罪することなく、種子島氏、及び連動して辞任した新田・内田・勝岡氏(欠席の松浦氏を含めると理事の辞任は4人になる)とともに、会場を退出した。その直後、種子島・八木両氏は、すでに会長・副会長の地位を失っているにもかかわらず、一人の事務局員にひそかに指示して、自分たちの一方的言い分を書いた声明文を掲載したFAX通信を送信させた。予め準備したゲリラ行為だった。
 理事会は、その後の対策を協議した結果、高池理事を会長代行に、藤岡・福地両理事を副会長に全会一致で選任した。ここに、理事会内の半年にわたる混乱は終結した。理事会は、小林正氏ら5人の理事を選任し(後の理事会でさらに2人を補充)、7月2日の定期総会に向けて、会再建の歩みを始めた。
 
 (43)以上、八木氏ら6理事の辞任に至る経過をたどってきたが、最後に全体を振り返っておきたい。最近判明したことだが、八木氏は以前から、会の創設者である西尾・藤岡両氏を追放して、つくる会を自分たちの世代で固めるという、クーデター構想とでもいうべきものを複数の知人に語っていた。宮崎事務局長問題は、それとは無関係に起こったことで、八木会長は初めはリーダーシップを発揮して意欲的に問題の解決に取り組んでいた。ところが、理事会内で宮崎氏の擁護グループが忽然と姿を現すとたちまち態度を豹変させて変節し、八木氏自身が提起した方針に基づき汗を流してきた他の執行部メンバーを裏切る行動を取った。会の混乱を、かねての願望を実現する好機としてとらえ直したものと考えられる。
 この間の動きを通して観察すると、西尾・藤岡両氏を排除しようとする、異常なほどの強烈な意思が一貫して感じられる。それに対し、良識派理事は、善意で臨み、宥和と妥協を図ることによって問題を解決しようとしてきたが、それはことごとく裏切られ、逆に利用される結果となった。後から振り返ってみると、八木・宮崎グループとの宥和の可能性は、問題が顕在化したかなり早い時期から消滅していたと考えざるを得ない。
 1月理事会で西尾名誉会長の事実上の追放に成功してからは、彼らは専ら藤岡氏の排除に全力を注ぎ、2月理事会では多数派工作によって藤岡氏を会から除名する手はずだった。それに失敗すると、今度は同氏の共産党歴に関する謀略的な偽情報を流し、これを公安調査庁という国家機関の名前を権威として利用することで信用させるという、反社会的・犯罪的行為にまで手を染めるに至った。
 その謀略的行動が露見し、挫折するに及んで、八木氏らは正々堂々と事情聴取に応じることなく、責任を他に転嫁しつつ自ら辞任・退会していった。組織の指導者としての、また言論人としての倫理を踏みにじった八木氏らの行為は厳しく批判されなければならない。八木・宮崎グループは、辞任・退会後も、ブログなどの手段で、藤岡氏を標的とした人格攻撃を執拗に繰り返している。それは、藤岡氏の名誉を抹殺することによって、つくる会それ自体の崩壊をも狙ったものである。
 「新しい歴史教科書をつくる会」は、この度の理事会内の混乱を痛い教訓とし、会の趣意書に示された創立の理念に立ち返り、多くの方々のご支援のもと、あらゆる困難を乗り越えて会の初志を貫徹するために努力する所存である。

[762] 平成18年つくる会総会での小田村氏の発言 Name:桜子 Date:2012/06/05(火) 22:23 [ 返信 ]
小田村でございます。
今日はですね、私は一会員としてこの総会が無事に終わるかどうか拝見したいと思って参りましたので、発言するつもりはなかったのですが、やっぱりこれはちょっと問題だなと思うことがございますので、それを申し上げさせて戴きます。

つくる会の内紛というのは本当に残念でございまして、はやくこのような教科書の内容にも採択にも全く関係のない無用な争いは、早く止めていただきたいと前から思っておりましたが、残念ながら会の外に出ましてですね、『SAPIO』とか『諸君』とかですね、場外乱闘になってきた、本当に残念でございます。

今日の新しい小林会長を迎えられましてですね、新しくつくる会を発足する、そこで会長のご挨拶にもございましたし、それから高池副会長の経過報告にもございましたように、今までの内紛の問題はですね、全部白紙に戻して、そうしてその、今後は、理事を辞められた方々ともですね、同じ同志としてつきあって参りたいと、こういうお話がございまして、私は是非そういうふうにしていただきたいと、こう思っておるのですが、今日配られましたこの「6理事辞任に至る経過報告」、これはですね、私はまだチラチラとしか見ていないんですけれど、この内容はですね、今までの、その場外乱闘は、たとえば西尾さんとかですね、藤岡さんとか、あるいは八木さんとか勝岡さんとか、あるいは種子島さんとか、そういうような方々の、個人としての主張でございます。
ところが、これはですね、つくる会の名前になっております。
これを、経過報告につきましてですね、
実は八木さんはこの7月27日に新しい組織を発足する、という案内を、私、いただいております。
で今度はですね、(つくる会総会資料第3号議案の)事業計画及び予算の件、この「一」のですね、(5)ですか、
「つくる会の設立趣旨に賛同して友好協力関係にある諸団体との関係を重視し、これをさらに発展強化させるために取り組む」
と、こういうふうにございますけれども、そうするとですね、今度八木さんの発足するという組織ともですね、提携してやって、是非いただきたい、このように思っておるわけです。

ところがですね、このつくる会としての、この報告が出た場合に、一体その八木さんたち、六人の理事たちは、つくる会に協力できるんでしょうか。
私は、このつくる会の経過報告は回収するか、さもなければ「つくる会」というところを消してもらいたい。(八木さん六人の理事たちがつくる会に)帰りやすくして貰いたい、このように思うわけでございます



この発言の前につくる会の副会長が、つくる会を出て行った理事の人たちに、出来れば戻ってきていただきたいと言っているのです。

[758] プルトニウム Name:桜子 Date:2012/03/05(月) 00:43 [ 返信 ]


  

[756] 陰謀の特徴は「巧妙な手加減」だ。 Name:ねこ HOME Date:2012/02/19(日) 14:51 [ 返信 ]
 
陰謀の特徴は「巧妙な手加減」だ。
http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p038.html#page257
パチンコなどの遊戯施設の経営で、最大の利益をあげる者は、
お客を適当に喜ばせ有頂天にして最後は有り金を全て巻き上げる。
「陰謀」でも、最大の効果を上げるために、同じ理論が駆使される。
これを、巷では、「褒め殺し」と呼ぶ。
火山爆発でも同じような事が繰り返される。

[755] セシウムの慢性摂取 Name:桜子 Date:2012/02/17(金) 16:28 [ 返信 ]


  

[751] 『誰も語れなかった沖縄の真実』惠隆之介著 Name:桜子 Date:2012/01/24(火) 20:41 [ 返信 ]


──────────── 引用はじめ ────────────

【書評】『誰も語れなかった沖縄の真実』惠隆之介著
2012年01月22日 産経新聞 東京朝刊 読書面

 ■高い見識と精緻な事実認識

 中国は沖縄侵攻の機会を狙い、アメリカは防衛線内に沖縄を含めるかどうかを迷い、日本は基地反対を叫ぶ沖縄の県民意識とアメリカのアジア戦略の間を漂流している。

 そんなことでどうなるのかについて、本書は凡百の沖縄論を圧倒する広い視野と高い見識と精緻な事実認識でかねて知りたかったことを述べている。著者は沖縄出身、海上自衛隊二尉、琉球銀行勤務に加えて、米国国務省の国防戦略研修を経ているので、目からウロコの連続だが、なかでも県民意識についての叙述は他県民には書けない領域に踏み込んでいる。

 沖縄の人は沖縄のことを何もかもワシントンまかせ、東京まかせにして自分たちは基地負担の過重を叫んでいれば優遇措置が幾重にももらえると思っているのかどうかについて、そうなってきた歴史を通観する著者の目は鋭い。

 まず、もともと冬がないから物の見方が一面的で、左翼教条主義に染まりやすいとの指摘が面白い。

 つぎに、長く続いた尚王朝の圧制による自主性の消失と島津藩と清に両属する外交の歴史が沖縄人の心に大きく影響していると手厳しい。

 最後に、著者は警告する。復帰後は日米双方からのご機嫌取りがあり、その過程でご機嫌取りに依存する勢力が肥大しているが、いま、日米双方に沖縄を見限ろうとする気持ちが生まれつつある、と。

 そういえば、すでに20年前、沖縄県知事がワシントンを訪問したとき、現地の新聞はこう書いていた。

 知事「沖縄の県民所得は本土の半分である」

 先方「労働時間も半分である」

 知事「沖縄は観光産業を興したい」

 先方「いま駐留しているアメリカンボーイが、将来、新婚旅行にくるようにもてなしてくれ」

 知事「広くアジアと手をつなぎたい」

 先方「アジアの人々の所得は沖縄のさらに半分だが、どう付き合うつもりか」

 知事「………」

 いま沖縄問題は、焦眉の急にある。(ワック・1470円)

 評・日下公人(評論家)
──────────── 引用おわり ────────────
http://webs.sankei.co.jp/search/page.do?mode=1&paperNo=1&publishDate=20120122&newsId=2012012210000660f8&keyword=%9C%A8%97%B2%94%56%89%EE

[752] RE:『誰も語れなかった沖縄の真実』惠隆之介著 Name:桜子 Date:2012/01/24(火) 20:42


  

31件〜40件(全268件)  124678910       <RSS>    【管理者へ連絡



■<藤岡先生の名誉を守る会〉の法廷報告 (平成20年7月20日現在)

怪文書1  怪文書2  怪文書3  怪文書4 怪文書5  怪文書6

怪文書4及び怪文書5に使われた原文



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