東 京 支 部 掲 示 板


   全国の善男善女が書きこむ板です。
 
 『新しい歴史教科書』が文字通り新しくなって生まれ変わりました。
歴史教科書刷新の運動は新たな時代に突入致します。
伝統に学んだ豊かな知恵を集め、汚れのない心で若い世代を育てましょう。


つくる会のtwitter

自由社
     新しい歴史教科書をつくる会  つくる会 東京支部
 


[333] 画像の実験投稿 Name: Date:2009/12/24(木) 07:20 [ 返信 ]


 どうやら、bmpファイルのままでは投稿できない様ですね…。

[336] 粘葉本和漢朗詠集から(其一) Name:苹@泥酔 Date:2009/12/24(木) 21:45


ときはなる まつのみどりも はるくれ
ば いまひとしほの いろまさりけり

止支波奈留 末川能美止利毛 者留久礼
者 以末比止之保乃 以呂末左利介利

 …年末年始、実験投稿を続けます。
 画像処理の程度次第で、輪転機にかけた後のプリントの読みやすさには相応の差異が生じる模様。〜上記画像は十数年前に処理したドリル&テスト用の画像です。当時の苹はこんなのをズラリと並べ、生徒を「昔の字が読める日本人」に仕立てようとしてました。
 「つくる会」は歴史教育改善運動団体。その底本には誤読の余地があり得るでしょう。歴史的文書の解読に際して、基礎となる国語的領分に関われるなら苹は本望で御座います。今回は現代の平仮名活字体と字源のみ提示して置きます。


[337] RE:画像の実験投稿 Name:桜子 HOME Date:2009/12/25(金) 01:38
素敵ですね。


[340] 粘葉本和漢朗詠集から(其二) Name:苹@泥酔 Date:2009/12/25(金) 19:55


さつきやみ おぼつかなきに ほととぎす
なくなるこゑの いとゞはるけさ

左川支也美 於保川可那支尓 本止ゝ幾須
奈久那留己恵乃 以止ゝ者留計左

 変体仮名は支、於、可、那、尓、本、須、者で、支と那は二度出てくる(計10字)。それ以外(計21字)は現行の平仮名だが、今の感覚で云えば恵も変体仮名に準ずる扱いとなるのだろう。

(余話)
 平仮名と変体仮名は、明治三十三年の小学校令で正式に分かたれた。それ以前はどちらも共に平仮名だった。本来、両者に区別はない(興味あらば旧稿参照↓)。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7658&range=1
 日本人に対する知的劣化工作は先ず日本人自身が始め、敗戦によるGHQの占領を経て、次いで戦後日本人といった具合のサンドイッチ方式で遂行された。例えば一連の西尾幹二『GHQ焚書図書開封』は初期工作後の活字本が題材であり、その意味では史料面の劣化工作という性格を持つ。
 日本人が主導した領分は文盲化工作の方だった。祖先の遺した字を読めなくし、その代わりに活字中心主義を導入した。活字への移行過程で誤読や歪曲の手を加えれば、読者は既に考証的免疫性を失っているのだから、活字を盲信せざるを得なくなる。すると学者は活字時代以前の「文書理解」を占有できる様になる。〜古民家の蔵から古文書が出てきても家主は読めない。そこで読解を学者に依頼するか、もしくは再び死蔵、ともすれば散佚に至る。それを古書店から発掘するのも学者(あくまで広義、民間人を含む)と来れば、これすなわち「学者の占有状態」の出来上がり。
 「読めない人を増やし、読む対象を減らす」。〜そうした魔手を活字時代まで伸ばした一例が、件の所謂「焚書」だったと云えよう。


[343] 粘葉本和漢朗詠集から(其三) Name:苹@泥酔 Date:2009/12/27(日) 23:39


おほぞらに むれたるたづの さしなが
ら おもふこゝろの ありげなるかな

於保所良尓 武礼多留太川能 左之那可
良 於毛不己ゝ呂能 安利介奈留可奈

 於と奈は字源が同じでも草略が違う。於は旁の略体二点の筆順が異なるが、下から上に向かう「ひねくれた形」の方が現行平仮名「お」になっているのは、考えてみれば奇妙な話である。奈の場合は「な」の上半分を更に草略し、下半分の点々が分かる程度に草略を抑えれば画像末尾の形となる。
 所は書写体。活字の形を崩しても変体仮名の「そ」にはならない。(いつか主な書写体を纏めて画像に仕立てるかも。)
 「も」は毛の草略とされているが(高校教科書)、无の可能性もある。しかし无は「ん」の字源であり、しかも「ん」は「む」と読む。「ん」が「む」から切り離されて正式に撥音便専用文字となったのは明治以降。

(余話)
 後に「保守」と呼ばれる事になるらしき人々もまた、或いは日本文化の弱体化に利用されていった。書字の衰退に伴い、活字の領分における新旧字体や漢字制限の問題が取り沙汰され、他方では新旧仮名遣いの問題が絡み付いた。
 〜ところで、仮名遣いと仮名字体は別の話だから取り立ててどうこう云う筋合いではないが、仮名が一音一字に限定されて以降、仮名には常に表音的仮名遣いとしての性格が付き纏う事になる。そこでは音声が字面を制圧し、漢字と仮名の絆が明瞭な分岐へと向かった。言い換えるなら、仮名字体の多様性が損なわれて初めて、仮名は仮名自身の中に引きこもる事が可能になった。
 これを国語の脱亜入欧プログラムに見立ててみよう。〜漢字は中国文化である。それを基にして仮名が生まれた。漢字であると同時に仮名である文字が、同時に両者ではない用法を積み上げてきた。従って「漢字あるいは仮名である」様な同一の文字を漢字から解放するのが仮名における「脱亜」であるとするならば、そこから表音アルファベットに向かうのが仮名における「入欧」に相当する。現代哲学方面でドゥルーズが「包含的離接」と呼んだものを仮名は千数百年前から当たり前のごとく具えていたのに、そうした日本文化の「すぐれて現代的な」特徴を敢えてかなぐり捨てるのが国語における当時の進歩的態度であった。つまり脱亜入欧は日本文化破壊プログラムでもあった事になり、これを敷衍すればたちどころに西尾幹二先生の下記表現と共鳴し始めるだろう。
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=788
「西洋文化は調和と進歩、文明と破壊の二つをもつ双面神だったので、進歩と破壊だけが入ってきたのではない。背後にある調和と文明も同時に入ってきた。」
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=789
「私はたったいま「進歩と破壊だけでなく調和と文明をもたらした」と言ったのであって、「破壊だけでなく進歩をもたらした」と言ったのではない。「進歩」と「破壊」は私の文脈では同義語なのである。」


[345] 粘葉本和漢朗詠集から(其四) Name:苹@泥酔 Date:2009/12/28(月) 20:10


なにはづに さくやこのはな ふゆごも
り いまはゝるべと さくやこのはな

奈尓波川尓 左久也己乃者那 不由己毛
利 以末盤ゝ留へ止 左久也己能者那

 「へ」は部の「おおざと」略体とされている様だが、正直なところ、なかなかうまい具合には納得できない。極端な草略から字源を読み取る手法の限界を痛感させられる。これが漢字起源でなく、例えば山辺をあらわした象形ならすんなり納得できるのだが、漢字の呪縛が定着した時点で「象形に逆戻り」ってぇのは些か不釣り合いではある。となるとここはやはり、他字と同様に漢字の草略と見るのが妥当なのだろう。ただし円相類似形を「わ」と読む仮名の例が稀にあるから(角川『書道字典』では和に分類)、どのみち疑問が残る事に変わりはない。
 一々そんなふうに考えていくと、江戸時代あたりの版本を見ると時折、例えば尓だか丹だか字源のあやふやな字に出くわす事があるのに気付く。今は者の変体仮名とされている形でも、走の草略と解釈された例がある。また「ひ」の字源解釈では、ほんの僅かな差異が比と飛を分かつ。現代の書道字典で通説となっている字源が昔から今と同じ解釈で貫かれてきたとは限らない。この辺を偏狭な先入観にムリヤリ合わせようとすると本末転倒する虞がある。
 こうした事を無視して規範性を金科玉条とするのが現代通常の書道教育である。そこには「規範からの逸脱」についての規範がない(規範の二重喪失)。専ら「歴史を規範に合わせようとする」点では明らかに脆弱と云えよう。そこに歴史学や古文書学との壁が出来上がる。規範を学ぶのが目的なら書道は重要な基礎修練と云えるが、壁に乗じて一足飛びの表現を殊更に重視すると「恥の上塗り」隠せよう筈もなく、媚びたつもりの書道の方が逆に壁の向こう側から見捨てられる事になる。
 …前掲画像で出した通り、高校書道の教員採用試験では「40年ぶり」といった実施例が珍しい(滅多に実施されないのだから、珍しいのは当然である)。既に見捨てられている事の証左と云えよう。〜因みに東京都の場合、都立高校の書道担当教員122名の内訳は専任教諭1名、兼任教諭1名、常勤講師0名、非常勤講師120名だそうな。


[346] 粘葉本和漢朗詠集から(其五) Name:苹@泥酔 Date:2009/12/30(水) 01:42


ゆきやらで やまぢくらしつ ほとゝぎす
いまひとこゑの きかまほしさに

由支也良天 也末知久良之川 保止ゝ支須
以末比止己恵乃 支可末保之左尓

 ここでの「ゑ」は中央の巻き込みが省略されているため、「志」と誤読する可能性が生じる。しかし「其二」の「ゑ」と比較すれば分かる通り、空間配分のバランスは概ね変わらない。それは元々の点画位置が変わらないという事でもあり、実際に書かれる字画は「あるべき場所」に拘束されながら自在に変容する。
 場所の論理を下層レイヤーとする平面上に字画のレイヤーが重なり、その全体が意識下の規範レイヤー(今は楷書もしくは活字の像)と重なる。つまり規範レイヤーとしての文字像は場所の論理で下層レイヤーと同一のバランスを保つべくして保たれ、そこからの逸脱を上層レイヤーとしての字画(草略)が補完する。従って「場所の論理」は規範と実際との間に挟まれる事で「実在するかの様な振る舞い」を見せるが、それは所詮「読めた」時点での振る舞いであり、読めない字からは時折こぼれ落ちてしまう。
 しかしながら別の方向からみれば、この「場所」を字画から読み取るプロセスに刺激された結果、規範レイヤーの記憶が誘引されるとも云えるので、「場所が先か、規範が先か」と借問すると、国語的には遺憾ながら「場所が先」と云わざるを得ない。〜こうした文字認識プロセスを根こそぎ省いたのが現代の国語教育と云えよう。なぜならそこには漢字と仮名の二分法しか存在せず、中間にあった一切合切はとっくの昔に活字世界から排除されてしまったからである。
 …とどめを刺したのが実は筆順指導。「こう書く事になっている」ではそもそも筋が通らない。書く時点で筆順があるから場所が生成するのに、読む時点で場所の向きから逆生成する草略示導プロトコルとしての筆順を「楷書に閉じた理屈」であるかの様に教えるのは、算数で計算の仕方を教えずに丸暗記させるのと同じ事である。
 例えば「学」は「學」、「塩」は「鹽」の草略を楷書化した漢字。前者の「ツ」は、相当する場所にある左・中・右それぞれの字画群を単純化した形。後者の「土」は「臣」、「口」は「鹵」に相当する。ここでは草書の中に楷書があり、楷書の中に草書がある。楷書と草書の区別は必ずしも形態上の差異に依存しない。それ以前に、書体の差異を同一の文字認識に統合するには、草略原理の棲まう理念的な場に於て、先ず暫定的区画の差異が(深層から表層までの間に)前提されねばなるまい。


[347] 粘葉本和漢朗詠集から(其六) Name:苹@泥酔 Date:2009/12/30(水) 19:51


ゆきてみぬ 人もしのべと はるのゝの
かたみにつめる わかなゝりけり

由支天美奴 人毛之能へ止 者留乃ゝ能
可多美尓川女留 和可那ゝ利介利

 「多」は総ての仮名の中で最も極端な草略の部類に属する。こんな字を書く時は「場所の原形を留める」様にいっそう注意しなければならない。「だるま」や「だんご」など、大きく書かれる機会の多い言葉では屡々「多」が「より草書に近い形」で書かれるが(「匁」と似た形)、それを更に草略すれば画像の様な首の長い形となる。上部のカーブは草書における囲みの部分に相当するため、その中に下部が収まる気配を残して置かないと字形が総崩れになり、「こ」などの字と誤読しやすくなる。下部は「〆」状に略される箇所の更なる草略。ここは「其三」に出てきた様な、巻き込む形(「〆」相当部分を抱き込む形)でも書かれる。

(余話)
 書が作品たり得た時代、というのは本当にあるのだろうか。もちろん明治以降は(中でも敗戦後は)確かにそうなるのを目指したし、恰もそう呼ぶのが当然であるかの様に誰もが現在「作品」という言葉を用いている。〜これが習作となれば別のニュアンスが加わる。清書に至っては「お習字」のイメージ満載だが、どうした訳か私見では「作品」より「清書」の方がしっくりくるから余計に困ってしまう。…そもそも作品なんて、ほんの一握りの「書家」が書くものではないのか。いや、それ以前に昔、何処の国に今の我々が連想する類の書家が居たと?
 王右軍や顔魯公なら居た。軍人、政治家、貴族、官僚、僧侶などに能筆がゴマンと居た。天皇、皇帝や総理大臣クラスならゴマンとは行かないが、嵯峨天皇や太宗を書家扱いする無神経が書家の習い性なら、大抵の「素人はだし」はそうした感覚をむしろ怪訝に思う筈。そしてもっと踏み込んで云えば、書家でなくとも作品は書ける。ならば作品とは何か。現代の書家自身がいかなる条件や要素を以て書家だの作品だのと見なしているのか、私は自己限定の中身をしかと把握していない。
 視点を変えて、支那的な画家のそれを画工の領分と見る事なら可能かも知れない。しかし文人画が士大夫/知識人の余技なのに対して、画工のそれは本職の技である。にもかかわらず、たぶん私は画工の画を見た事がない。…勿論これからはどうなるか分からない。脱亜入欧は日本を、共産主義は中国を、それぞれ内側の変質へと向かわせてきた。双方にそれぞれ中身も経緯も異なる保守姿勢がある。共通の括りで「保守」を定義するには無理がある。ところがそうした変質から、これまで歴史に埋もれてきた人々に「浮かぶ瀬」の機会が齎された。日本では疲弊に向かうかも知れない。中国では拝金主義に振り回されるかも知れない。
 例えば、書家の作品は余技たり得るのだろうか。隠遁は可能か。〜西洋の芸術家が下層民の職人的技術から出発してパトロンへの反発を強めていったのとは根本的に異なる。書が大衆の芸術(芸能・芸道)としてハッキリ溶け込んだのは主に江戸時代だが、それはあくまで「下から上」でなく「上から下」への流れであって、そこに近代的意味で唐突に芸術上の自覚を問うた途端、今度は巨大なパラドックスが歴史の接続から浮かび上がってしまう事になろう。(念のため〜ここで指摘したのは歴史の「接続」であって、「連続」の方ではない。ただし外部との接続により「連続」自体が構造的にウイルス化し、歴史を内側から脅かす場合がある。)
 ここに何かヒントが隠れているのではないか。保守が思想たり得た時代、というのは本当にあるのだろうか。伝統や文化を守るとはどういう事か。守ったつもりで居た筈が、実は破壊の一翼を担っていたのではないか。〜私は「つもり」姿勢に依存した「自覚なき盲信崇拝」を自他双方に重ねつつ恐れる。(「保守と作品」「保守政治家と書家」が似ているかどうかは定かでない。)


[348] 【粘葉本】画像実験投稿 Name:苹@泥酔 Date:2009/12/31(木) 00:34


 …カラー画像の圧縮実験。

[356] 「其四」末尾の元ネタ開陳 Name:苹@泥酔 Date:2010/01/04(月) 01:24


 「粘葉本和漢朗詠集から(其四)」稿の末尾で、「都立高校教員122名の内訳は専任教諭1名、兼任教諭1名、常勤講師0名、非常勤講師120名」と書きました。元ネタはコレ(↑)でやんす。(その次の号には私立高校の調査結果も載ってました。)

[418] 私立の場合 Name:苹@泥酔 Date:2010/01/27(水) 22:05


 興味あらば、公立高校(No.356)と比較されたし。

[455] 粘葉本和漢朗詠集から(其七) Name:苹@泥酔 Date:2010/04/11(日) 22:26


わがきみは ちよにやちよに さゞれい
しの いはほとなりて こけのむすまで

和可支美波 知与尓也知与仁 左ゝ礼以
之能 以者保止奈利天 己介乃武寸末天

 初句でチョイと戸惑った後は、日本人なら(本来)誰もが子供の頃から歌ってきた通りに続く。取り立てて説明するまでもない。変体仮名は既出のものばかりである。苹は終始一貫、これを定期考査で出題し続けてきた。ただし授業では絶対に取り扱わない。音楽か国語の授業で既習の筈だからである。
 これ以外の歌二十首を仮名読解用プリントで授業し、毎年その全部を一首あたり三点の配点で出題(3×20=60点)。ただし順番は毎年シャッフルする。採点は減点制で、読み誤りと枡目の位置ズレが一首に三字あれば零点となる。授業で扱わない応用問題は一首あたり五点。その中の一つが上記画像である。
 とどのつまりは御覧の通り、唖然とするレベルの「ゆとり教育」準拠。この授業と出題の位置付けは、高校「書道T」に出てくる「平仮名・変体仮名単体」から所謂「実技」への移行措置であり、なおかつ円滑な練習(ただ模倣するのではなく「読む様に書く」)に結び付けるための国語的配慮を指向したものである。これが最低限。更にレベルを下げると歪曲教育か教育偽装になる。
 在職中に経験したクラス平均点は、最高のが某底辺校の八十数点。たぶん大学進学を目標としていなかったのと、クラス担任が協力的だった事の影響だろう。他のクラスは準進学校でも殆どが五十点に達しなかった。
 赤点の生徒は、殆どが再試験か再々試験で通告済みの要求レベル(六十点以上だったかしら?)に達した。再試験問題は毎回作成し直したが、再々々々試験まで作成を繰り返した記憶はない。
 全日制授業の最低レベルに於ては、上記のごとく明治時代前半の小学生レベルに達するのが精一杯だった事を今も遺憾に思う。


[458] 小野鵞堂の「君が代」 Name:苹@泥酔 Date:2010/04/16(金) 19:09


 >>455の「我が君は〜」と違って、こちらは正真正銘の「君が代」でござる。それも国歌として定着した後だから、書く側にも観る側にも格別の思い入れあってしかるべし(落成款識に「拝書」とある)。
 雅印は正式に三顆。拡大すると印刷の荒さが目立つものの、差し当たり引首「大正乙卯即位紀念」、白文「小野カン(金間)印」、朱文「鵞堂」と読める。
 上記画像は1984.4.21初版の『近代日本の書』(芸術新聞社)P.51から採った。


[461] 鵞堂「君が代」引首印 Name:苹@泥酔 Date:2010/04/18(日) 16:57


 しつこい野郎は嫌いでも、鵞堂は嫌いにならないでネ。「坊主憎んで袈裟を憎まず」と云うではないか。(…アレ?)
 下記サイトの説明によると、引首印(関防印)は「大正乙卯即位配命」となる模様。ただし書きぶりが鵞堂らしくないので苹は贋作を疑うが、それ自体は大した問題でない。要は「印が本物なら構わない」ってこった。しかし仮に印が贋だったとしても、わざわざ字句まで変えるかなあ。律儀に(?)似せようとするのが普通でしょ。どこかの国のコピー商品じゃあるまいし(SQNYとかYAHAMAとか)。
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1486.html
 ここは一つ、別の資料を参照したい。〜てな訳で久しぶりに小野鵞堂『かな書道』(秀峰堂)を引っ張り出したところ、P.238に上記図版が載っている。引首印は同一らしいが、小さくて判読しにくい点は>>458と大差ない。にもかかわらず、じっと見つめていると「紀念」でなく「配命」の様な気がしてくる。
 P.61にも別の「君が代」図版があるが、こちらは引首印がない。


[530] No.418の脱線ネタ(天来) Name: Date:2010/07/21(水) 05:15


 先日、偶々書店に並んでいた比田井和子『現代書道の父 比田井天来』(天来書院)を買ってきた。…そう云や昔、あたしゃ「天来書院」サイトの掲示板に出入りした事があったんだっけ。
 記録を見ると、前回閲覧は「2005/11/12 18:04」とある。その何年か前、ちょいと掲示板に書き込んでみた。神戸大の魚住和晃教授が季刊誌『墨』に「東京都は戦後一貫して教員採用試験を実施していない」って話を書いていたので、その件に触れてみた。すると『楷書がうまくなる本』(二玄社)など著書多数の筒井茂徳って先生からレスがあり、それによると実施した事がない訳ではない模様。どちらが本当か怪訝に思っていたが、どうやら以前>>418で載せた「書道美術新聞」記事画像中の、コラム「風信帖」に書いてある事が真相であるらしい。
 サイト主らしき和子女史は天来の孫にあたる。掲示板上の遣り取りでは書きにくい事でもあるのか、あちらの希望で苹には不慣れな電子メールを用いる事と相成った。当時の記録を見ると、苹からの通信は全十七通(2002/07/24〜2003/07/03)。その後は西尾先生の「日録」付随掲示板などに掛かり切りとなり、御無沙汰のまま以後それっきり(汗)。そもそも書道方面では十七という数字が印象深く(その次は三十六?)、あたしゃ多分この辺が潮時とでも思ったのだろう。苹に電子メールは似合わない。〜あれからどうなったのか、久しぶりに閲覧するのが恐ろしくもあり、また懐かしくもあり。
 てな事を考えながら新獲本を読み進めると、P.96に「天来書院」サイトの画像が載っている。体裁が昔と違う。アドレスも違う。あたしゃどうやらそれと知らぬまま、実は既に部分閲覧していたらしい。昨年の天バカ板では丁度こんな書き込みをしていた(↓)。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7680&range=1
 出版されて間もない時期とは知らず、奇妙な偶然で天来に言及する事となった。『現代書の誕生』(天来書院)を買ってあった事もスッカリ忘れていた。

 上記画像は弘前第一ホテルがあった当時の写真である。1987.1〜3の、まだ雪のある頃に撮影したと記憶する。…我輩は不精者である。ネガはもうない(たぶん)。床の間に、こんなふうに飾られていた。


(以下2010.07.23追記)
 和子本P.34に、こんな記述がある(↓)。
--------------------------------------------------------------------------------
> 大正十五年二月、天来は台湾各地を歴遊して、帰途、小倉、福岡に遊び四月下旬に帰京。そして九月、朝鮮に行きます。そしてここ、朝鮮で、予想していなかった大きな収穫がありました。ある日、古本屋へ行ったところ、紙くず同様に積み上げられた中に、立派な筆跡の手紙を発見したのです。それは日本の鎌倉時代に当る頃のもので、同時代の日本と比べるとはるかに優れており、三筆三蹟に匹敵するものでした。天来はこれらを買いあさりますが、次第に値段がつり上げられて困ったと書いています。
> 時の総督、斎藤実は文化政治を行った人で、天来と懇意でした。天来は斎藤実の協力を得て李王家の宝蔵から博物館、総督府の博物館、その他個人の所蔵にいたるまでカメラマンを連れて訪れます。これは昭和六年に『朝鮮書道菁華』全五冊(48ページ参照)として結実しますが、戦乱が続き、名品が失われてしまった本国にとっても貴重な資料となっています。
> 天来は十一月に朝鮮を後にして、帰途長崎、熊本に逗留すること五十日あまり、帰京したのは十二月二十三日でした。
--------------------------------------------------------------------------------
 つまり天来は、所謂「日韓併合」時代に朝鮮半島の書文化を調査した事になる。その成果が上記の通り。もし半島がロシアの影響下に入っていたら今頃(=すなわちソ連時代を挟む場合)どうなっていたか。同じ事が支那植民地化を進めていた欧米列強にも云える。片や日本は書字文化を理解し、かつ半島や支那の文化に敬意を払っていた。そもそも日本の開国は東西双方を向いており、最初からチャンコロ蔑視の態度で接した訳ではなかった。だからこそ支那や朝鮮の優秀な人材達が続々と日本に留学した。云わば日本を文化的中継点としつつ、或る意味「翻訳的態度で」彼らは誇り高く学んだのである。
 ここでは日韓併合のタイミングが朝鮮文化を守った。日韓併合という政治的思惑が守ったのではなく、タイミングが「日韓併合という成果」の一環で朝鮮文化と関わった。従って文化的側面に関する限り、日韓併合それ自体を難詰しても事実上無意味である。〜もし半島側が自力で危機的タイミングを乗り切る事が出来たのなら、日本側とてわざわざ身銭を切ってまで併合する必要はなかった筈。お互い提携して列強に対抗すればよいだけなのだから。しかしタイミングがそれを許さなかった。政治的不幸には心の底から同情するが、文化的難詰となるとイチャモンとしか思えない。現に戦後、それぞれ自国から漢字文化を放逐したのは彼ら自身である。日本には何一つ責任も罪もない。
http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-950.html
 ところで昨日、「日録」管理人様のブログ(↑)を見た。「つくる会」の小山理事が、民主党政権の動きに危機感を抱いているそうな…。



  




■<藤岡先生の名誉を守る会〉の法廷報告 (平成20年7月20日現在)

怪文書1  怪文書2  怪文書3  怪文書4 怪文書5  怪文書6

怪文書4及び怪文書5に使われた原文



■リンク

日本流まな板  新しい歴史教科書を支援(広義)する掲示板 本板 姫板 姫板ウラ


東京三多摩支部事務局 
Powered by WEBでき掲示板